木内厚子 インタビュー

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――大学に入学するとき、どのような理由で建築を選ばれたのですか?
木内厚子 私は当時、大学へは行く気はなかったんです。なりたかったのは料理人だったんですよ。だけど親に反対されて、とりあえず大学には行けって。それで、小さい頃からものをつくることが大好きで、料理はあまり今はつくらないんですけれど、昔はお菓子とかをよくつくって友達に持って行って喜んでもらったり、母親が洋裁、祖母が和裁をやっていたので自分の洋服をつくったりしていました。とにかくものをつくることが大好きで、その延長で料理人になりたいな、と思っていて……。それを反対されて、何かものをつくる仕事で、せっかく大学へ行くのだから覚えるのに時間がかかる仕事がいいと考えて、建築系に行こうと思いました。
――建築系といっても、美術系と理系があったと思うんですが。
木内 そのへんはあまり深く考えてなくて……。何ででしょうね? でも、本当にあまり深く考えてなくて、後から考えると建築系の大学もいろいろあるし、先生もいろんな人がいるので、ちゃんと考えればよかったなってすごく後悔したのですが、最終的に日大の海洋建築しか受からなかったんですよ。他もいろいろ受けたんですけれど、もともと大学に行く気がなかったので浪人なんてあり得えないと思い、とにかくそこに行こうと思いました。
――日大を選んだのは、いくつか受けた中で受かったところだったということですか?
木内 そこしかなかったというのはあります(笑)。

――大学に入ってからはどうでしたか?
木内 入ってからは1年生の頃から、もともとものをつくることが好きだったので、やりはじめたら楽しいな、という感じでした。そして、教えに来ている先生の事務所へアルバイトに行ったりしました。
――それは何年生くらいのときですか?
木内 1年生のときから行ってました。友達同士で、「あの先生のところでコンペをやってるから手伝いに行かない?」と誘い合ったりして、何人かの先生の事務所に行かせてもらいました。
――どのような先生のところへ行ったんですか?
木内 住宅を中心にやっている先生もいれば、大きい施設や公共のコンペをやっている先生もいました。多分、今だとそんなにアルバイト代は出ないのかもしれないのですが、その頃はちょうどバブルの絶頂期だったためか、アルバイト代もきちんともらえました。建築以外のアルバイトをするより、好きなことをして、且つ、いろんなことを覚えられてお金がもらえるなんて、なんてラッキーなんだろうと思った記憶があります。

――その頃、どんな課題をやっていましたか?
木内 うーん、今年から教える立場になって思ったのですが、イマジネーションを湧かせるような課題や、1年の時から発表時のパフォーマンスも評価されるようになった点は変化を感じます。私の学生のときは線や絵の練習とか図面の写しなどが多く、最初はやはりつまらないな、という印象がありました。それと、海洋建築特有なんですが、必ず川のそばとか海のそばとか、建築覚えるのに水の近くじゃなくても覚えられるのに、という思いはありました(笑)。まあ、学科が学科なんで……。
――いくつか課題があったと思いますが、どんな課題を覚えていますか?
木内 一番記憶に残っているのは、船橋校舎の船橋日大前駅の手前の敷地にミュージアムをつくりなさいという課題です。大学の建物ではなくて、大学と駅の間が敷地で、美術館をそこに建設するという課題でした。三角形の敷地でしたが、その課題が一番記憶に残っていて、今でもそれは実現したいと思います(笑)。
――何年生の課題ですか?
木内 2年の終わりか3年のはじめだったと思います。そのときは先生に褒めてもらえて、「評価されるのは気持ちいいな」って感じた記憶があります。

――海洋建築は3年の後期から研究室に着手しますが、研究室はどのように選びましたか?
木内 当時の海洋建築には設計系の研究室が2つしかなくて、船橋校舎の図書館が好きで、それを設計された小林美夫先生の研究室を選びました。
――研究室には何人くらい学生がいたんですか?
木内 1学年10人、大学院生もいました。海洋建築にも衛生的に問題があるのではと思われる大学院生室があり(笑)、男子のゼミ生は泊まりこんで、大学院生を手伝いに行ったりしていました。だけど、男子部室のようだったせいか、私はあまり手伝いに行かなかったですね(笑)。

――4年の卒業設計ではどのような作品をつくりましたか?
木内 移動型の水上劇場です。だけど、それはボロクソな評価でした(笑)。
――具体的に場所を設定したんですか?
木内 決めたんですけれど、今はあまり思い出せません……(笑)。多分、設定があまりよくなくて、構造的にも成立しないみたいな評価で……。今考えると確かに成立しないなって(笑)。結構無理なことをしていて、評価は悪かったですね。それまで水に抵抗してきたものの、最後はやっぱり水だろうという感じで、それでは浮かせちゃえって思って……。それで、それまで勉強していなかったこともあって、あまりフローティングとかわかってなくて(笑)。

――その後、大学院は東京藝術大学大学院に進まれましたが、どうしてですか? その頃には建築を続けようという気持ちはあったんですか?
木内 その頃はやる気満々でしたね。ある意味建築のおもしろさにハマっていました。そんなにわかってはいなかったのでしょうが、とにかくやりたいっていう時期でした。アルバイト先で何人かの藝大OBの人と出会って考えはじめましたね。
――大学院は藝大しか考えていなかったのですか?
木内 はい、そうですね。
――藝大での指導の先生はどなたでしたか?
木内 先生は藤木(忠善)先生です。
――藝大はどんなところでしたか?
木内 日大は学生の人数も多いので競争が激しく、同年代でバリバリやっている人が多かったんですよ。それで、とてもではないけれど自分はついていけない感じがありました。それに比べて、藝大は人数が少なく、研究室は1学年に3人と、建築を学ぶ環境として自分のペースに合っているかなと思いました。

――大学院ではどんな活動をしたのですか?
木内 研究室の仲間で国立図書館(「国立国会図書館関西館」)とかのコンペをやったり、個々でコンペをやったり、先生の別荘(『マウンテンボックス』)がちょうど実施設計のときだったので、それを手伝ったり、研究室中心の生活でした。
――そのときにはじめて実施設計をやったんですか?
木内 そうですね。でも、やったと言うより、言われるがままにという感じですけれど。実施図面を描いたり、模型をつくったりとか。
――修士設計はどんなことをやったんですか?
木内 その頃は「住まう」ということにすごく興味があったので、集合住宅をやりました。いろんな人が集まって、一軒という単位ではなくて、その単位を崩したような集まり方はないか、ということをテーマとしました。また、高齢化や単身化ということも考えながら、いろんな世代の、そしていろんな環境の人間が住まえることを考えました。でも、設定の仕方が難しかったです。どこでも人は住めますからね(笑)。

――就職についてはどのように考えていましたか?
木内 就職については、とにかく気になる建築家のところに行こうと思っていました。それから、藤木先生に「設計事務所に行くのなら、中間管理職がいる設計事務所はやめろ。間に入る人の能力で教わることが変わるから」と言われてました。そこで、気になる建築家だった妹島(和世)さんのところに行こうと決めていたんですけれど、その年はもう遅くて……。1ヶ月くらい働いたんですけれど、仕事の状況でもう1人採るのはちょっと難しいということでした。そこで、(佐藤)光彦さんに拾ってもらったみたいな感じです。その頃、光彦さんと妹島さんが一緒に仕事をされていて、光彦さんが妹島事務所に出入りされていました。それで、もし妹島さんが採らないなら、という感じで……。光彦さんは、独立して1、2年目の頃ですね。
――佐藤さんのところに行こうと決めた理由は何ですか?
木内 とにかく働きたかったんです。学生のときはいろんなところでアルバイトをして、もちろん模型をつくったり、図面もいろいろ描かせてもらったけれど、とにかく責任を持って本当の建築をつくりたいという気持ちがものすごく強くて……。それから、佐藤光彦さんも建築家としてはとても魅力がありました。また、私は割と縁を大事にしたいと考える方なので、声を掛けてもらったのであれば、そちらの方がいいだろうと思いました。

――佐藤さんの事務所ではどんな仕事をしていましたか?
木内 そのとき、所員は私しかいなかったので、教わりながら、あれやれこれやれと言われながら、図面もあれ描けこれ描けと言われるままに……。当時は住宅の仕事が2軒同時に動いていました。梅が丘(『梅ヶ丘の住宅)と大島(『大島の住宅』)です。
――その2軒は初期の段階から携わっていたんですか?
木内 そうですね。一見同じような模型をたくさんつくらされました。箱みたいなものがそこら中に散らばってる感じでしたね(笑)。
――佐藤さんのところではどのようなことを学びましたか?
木内 私は、そのあと事務所を移っているのでそう感じるのかもしれないですが、いろんな建築家がいることを2つの事務所を経てわかりました。佐藤さんは、自分のアイディアをものすごく暖める人で、確信がない限り、口に出して言いません。ただ、出てきたときには、すごいなあといつも感じていました。
――どのくらい佐藤さんの事務所にいたのですか?
木内 ちょうど1年ですね。
――その後に飯田善彦さんの事務所に移りましたが、何かきっかけがあったんですか?
木内 光彦さんの事務所で2軒の住宅が終わり、その後に1つの住宅の設計がはじまったところでしたが、私がいてやっていけるのかなと思って(笑)。それで佐藤さんに相談して、就職活動して、飯田さんの事務所に移りました。

――次に飯田さんの事務所を選んだ理由は?
木内 学生時代に、谷口(吉生)さんの現場事務所で模型をつくっていたことがあり、その現場というのは葛西臨海公園の「レストハウス」の現場事務所だったのですが、そこでお世話になった方に紹介してもらいました。それで、面接に行き「じゃあ、来るか」って(笑)。ちょうど、飯田さんが学会賞をもらった作品(『川上村林業総合センター』)が、できた頃だったと思います。
――飯田さんの事務所でも住宅を担当したのですか?
木内 住宅も担当しましたが、入ってすぐに都市公団の再開発の商業施設の計画をしました。また、船橋日大前駅の向こう側にある都市公団のニュータウンの一部の計画提案などもしました。とにかく、いろんなことをさせていただきました。また、コンペがあれば忙しさに関係なく出す事務所なんで、1人2件とかコンペを担当していたりと、すごい生活でした。
――飯田さんのところではどんなことを学びましたか?
木内 飯田さんのところで学んだことは、何事もあきらめないということです。もちろん、デザイン的なこともそうですけれど、人を説得するということ、人は気持ちが変わるということを学びました(笑)。

――その後、飯田さんの事務所をやめて独立しますが、そのきっかけは何ですか?
木内 長野が故郷なんですけれど、そこで姉夫婦の家を設計しないかという話があったんで、それを期に独立しちゃおうかなって、また安易に……(笑)。今から考えると、もうちょっといろんなことを教わっておけばよかったなと思います。
――飯田さんの事務所に在籍したのも1年くらいですか?
木内 飯田さんのところは3年くらいです。
――ということは、卒業して4年で独立ですね?
木内 そうですね。早いですね。1人でやってみてわかりましたが、デザインとか設計だけができればいいというのではなくて、人との付き合いやコミュニケーションの取り方、仕事の取り方、そういうことを学ばずして出てきてしまったので、ちょっと後悔はしています。
――独立後の仕事はいかがでしたか?
木内 決められないことがわかりました(笑)。それまでは、条件を整理して、どういう選択肢があるかを所長に見せればよくて、自分としてはこれを選ぶという意思は伝えるけれども、やっぱり最終の決断をしないということがすごく逃げてるんだな、決められないんだなと思いました。
――選択肢を用意するところまではできるけれど、決めるのが難しいということですね?
木内 決めることが重要で、所長はえらいなって(笑)。決めることが大変ですね。

――その後、主にどのような仕事をやってこられましたか?
木内 仕事は住宅がほとんどです。たまに店舗の内装とか、ちょっとした提案とかやりましたが、主に住宅です。大きいものにもすごく興味はあり、大勢の人が使う建物もつくってみたいという気持ちもあります。でも、今のところはまだまだ住宅に興味があります。スタッフとして働いていた頃はフラットルーフの建物が多かったその影響なのか(笑)、最近は屋根について興味があります。もちろん外観だけでなく、それに伴なう内部空間にもです。それとともに住まうということ、周辺の環境のこと、自然環境のことを住宅に置き換えていくときに、デザイン的なこともそうですけれど、あり方としてよいのかどうかということを、つくればつくるほど深く考えるようになりました。また心地よさというものについてもです。
――今までやった作品で気に入ったものは何ですか?
木内 終わると、どの家もいろいろな思いがあって、どうしても自分だけでデザインしているのではない、いろんな要素があります。それを使う施主さんとコミュニケーションを取りながらやっていくので、だんだん変形もしていくし、はじめに考えていたことができればよかったなとか、コミュニケーションを取って変わったことがよかったなとか、どの家にもいろいろな思いがありますね。

――最近はプロダクトデザインもやっているんですよね?
木内 はい。プロダクトは、「ファクトリープロジェクト」というグループで基本的には活動しています。今、日本の産業を支えてきた中小の工場とか伝統工芸が、人件費の安い他国へ受注が流出したり、技術者の高齢化も進んだり、技術が受け継がれずに失われつつあって、10年後には、多分、5、6割は失われるんじゃないかという現状にあります。そういう状況の中、そういった技術をデザインの力でなんとか手助けできないかというのを8人ほどが集まってやっています。
――他の人たちも建築家ですか?
木内 建築家です。最近アクリルラウンドボウルが商品化されて売り出されました。今は、屋久杉のテーブルを試作中で、漆器なども今後やる予定です。話があればグループで動くという状況ですね。建築も多くの素材を使うので、いろんな素材の性質や特質を知ったりということはよい訓練になっていますね。
――建築とプロダクトの考え方で異なる点はありますか?
木内 もちろん、製品としてつくって売り出してくれる、住宅でいうところの施主はいるんですけれど、プロダクトは割と純粋にデザインできるという印象はあります。難しいのは、価格の付け方だなって最近思います。こだわればこだわるほど値段は高くなるので、それを世の中に出したときに売れる値段なのかが問題になります。売り出すことを前提にすると、芸術ではないので、価格であったりとか、1回につくる数量であったりとか、そういう点がまったく違うと思います。こだわったデザインをすると、価格として跳ね上がってくる。綺麗なんだけれども製品化はできないというのもあったりします。それから、建築との違いは、1人のお金を出してくれる人を説得できればいいけれども、ある程度量産するとなると、かなり大勢の人の納得がなければつくることができないというのもありますね。

――今年度から非常勤講師として海洋建築で教えています。数回の授業を終えたところですが、いかがですか?
木内 気持ち的にはまだ学生というか……(笑)。1年生を教えていて、彼らは18、19歳ですが、自分も大学を出たときと気持ちは一緒のつもりだったんですけれど、周りの学生をよく見るとやっぱり自分は歳とったなって(笑)。教えることは、自分にとってもいろいろと考えるいい機会になると思うので、すごく楽しみにしています。

――後輩たちにメッセージをお願いします。
木内 うーん、そうですね。建築は何にでも関係があるじゃないですか、空間がある限りは。本当にいろんなことに興味を持って、そこにはきっと空間が存在するはずなので、無駄だと思うことでも一所懸命やって、自分の力にしていけばいいんじゃないかなと思います。自分も今でもそうしたいと思っているんですけれど。何か機会を与えられたんであれば、やってみればいいんじゃないかなと思います。もちろん、自分から機会を取りに行くことも……。そんなところです。
(2008年4月15日 Studio 8にて インタビュアー:佐藤慎也、担当:大野寿文、数田宗房、松本江美子)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 5 21, 2008 14:55 | TrackBack (0)