コンペ的な思考
大きな倉庫の中に手を加える現場を見ているのだが、そこで使用されている仮設照明。直接見てもあまりまぶしくないわり意外と光が遠くに届く。レンタル代は月2万円程度。
「コンペ的な戦略ですべての建築が片づくわけではないけれど」
コンペで求められる思考回路としてはその都度かわる形式の中で「新しさ」「驚き」を持つ「最適解」を導き出すことだと定義してみる。そうであればその定義は実作の建築を作る上でも僕は有効だと思っている。定義の言い方をすこし変えると「その都度変わる条件に対して既成概念に引っ張られずに最適解をみちびく」。この中での「既成概念」というのはつまらない常識からつくり手の美意識や趣味まで含む。つまらない常識に対しては日々の批評的なまなざしで乗り越えることはできるが、個人が持つ美意識や趣味は何をもってして解体、整理、再構築がその個人の中で出来るかが未だにわからないのが悩みである。そんなの出来ないのかもしれない、それを目標とすることが間違っているのかもしれないが自分としては意識としては大事だと思っている。
よいエントリをありがとう。
積極的に「コンペで求められる思考回路」を考えるとhyの書いている通り。でも、それがコンペありきというところから話が始まっているのが気になる。hyの求めている設定なり状況は、ものをつくっていく上で何もコンペなんかに頼らなくても常に考えていく必要があると思う。もし、それが外的要因によらなければ乗り越えられないのだとすると、その最適な方法は他人とのコラボレーションだとぼくは思っている。もちろん、その外的要因をコンペとか、敷地とか、与条件に求めるのもそれはそれでよいのだけれど。
しかし、この照明を見ると、村上隆の『シーブリーズ』を思い出すね。
Continuing the discussion...に誘われて。
住宅のような規模だと違うかもしれないけど、設計をするとき意図的にコントロールしたいのは、やっぱりどう見られるのかというところ。個人が持つ固有性よりも、社会がもつ一般性のなかで、差異を突き抜けることが、建築が持つ社会に対する発言だと思っています。
この照明、道路工事で最近よくみかける。くらげみたいでわるくない。
シーブリーズを見たとき単純に明るいということがここまで表現になるのかと感心しました。この照明もたくさん並べればシーブリーズになれますね(笑)。
「その都度変わる条件に対して既成概念に引っ張られずに最適解をみちびく」もちろんこの定義は何もコンペではなくてよいと思っています。ただコンペの時ほど意識しやすというレベルです。外的要因、コラボレーションということは極端に言えば自分一人では「個人が持つ美意識や趣味」は乗り越えることができないということですかね?なぜこれほどまで「個人が持つ美意識や趣味」を考えてしまうかというとその表現、表現やデザインの客観性を獲得したい意識が強いが働いているからだと思う。だけどそもそもデザインや表現は日々の生活を楽しいものなるようによかれと思ってつくり手が生み出すもの。固まりすぎた論理のフレームではだめで自由な感性のもとに楽しい思考の上でつくられないと決してハッピーな日常を手助けするものは出来ないと思う。つくり手には論理的な左回り、自由な感性の右回りといった矛盾した二つの思考ルートがあってそのルートがどこかで重なりあったところが「最適解」なのではと思うのです。でもこの右回りの自由な感性ってなんなのですか?僕が思うに単純に個人の趣味やセンスだと思いますがこれが自由な感性を支えるものだとすると左回りで懸命に「個人が持つ美意識や趣味」は乗り越えようとすることと反してしまう気がしてなかなかうまくいかない。
Posted by: hy at November 6, 2004 11:26 AMやっぱり大雑把な意見になってしまうかもしれないけど、「個人が持つ美意識や趣味」を越えたいと思うのは、自分の想像の範囲内だけでできてしまうのがつまらないから。hyの話に無理に繋げるとなると、個人で描ける右回りと左回りによる円が、更に大きな円として描けるだろうということ。そう考えると、個人が持つ「美意識や趣味」だけが乗り越えるべきものではなく、個人が持つ論理的思考自体も乗り越えなければいけないもので、左右双方から越える必要があるということだと思う。
Posted by: shinya at November 8, 2004 05:01 AM最近、言語系の本を幾つか読んでいます。
その中で、「世界が私の世界であるということは、私が理解する唯一の言語の限界が私の限界をいみすることに示されている。」という名言を吐いた哲学者がいます。
それを上記の理論に置き換えると、自分の思考(言語)が建築の作り方(世界の把握)の限界を表していることにほかなりません。
最新コメントの方を乱暴にまとめて、
hyさんの求める「コンペ的思考」を
「個人の思考の限界を超えた思考」であるとすると、
それはないのかもしれないと思っています。
物事を決めていく段階で、「個人が持つ美意識や趣味は乗り越える」
=「一般を超越して評価される/新しい」ことは不可能であるから。
つまり、全ての決定は「個人が持つ美意識や趣味」によってのみ決定されていて、
「個人の思考の限界を超えた思考」を得るために
自動記述設計プログラムを作るのも
コラボレーターを選定するのも
建築の線一本を決めるのも
「個人」の範囲を逸脱して行うことは出来ないはずです。
単純に、「嫌いなことは出来ない」ってことなんですが。
逆に言うと、「個人が持つ美意識や趣味は乗り越える」という設定が
「個人の思考」が持つ可能性を過小評価した状態から出発している気がします。
逆に言うと、「個人の思考」は外的要素によって拡張も縮小もするが
その糸口は全て「個人の思考」が決定しているはずです。
だから、我々の「個人の思考」と言うものが、
自分に取って<絶対的>であると同時に
可能性を秘めた最高のルールであることを自覚し、
物事を決定していってもいいのではないかな?と思っています。
「個人の思考」が否定的に扱われる風潮が現在の建築界ようですが
「もの・こと」つくりの評価が差別化による希少価値であるとするならば、
なおさら強調され・特殊性をもった「個人の思考」は
多様化の中で重要性を帯びてくる気がします。
自分に言い聞かせたい言葉でもありますが。
Posted by: a+.sugawara at November 8, 2004 10:07 AMsugawaraくんの言うように「個人の思考」は大事だと思っていますよ。サーベイすることも、フォルムを描くことも、スタート地点は「個人の思考」の上になりたっている。ただ僕はその「個人の思考」の中に複数のベクトルがあってそれを整理したいと感じています。最近、ユリイカの藤森さん特集を読んでいて彼は対談の中で、「設計は好奇心による学問だけでは限界があって内的必然性がないとつくれてない」と話していました。その内的必然性によって自分と他人との違いみたいなものを気づく。その差を知識をもって理解しようとし、そしてその知識によって言語化されるとのことでした。この話を読んでいて強引だけど自分が書いた、右回り、左回りに繋げてみると「知識や学問による設計(表現)」を右回り、「内的必然性による設計(表現)」を左回りと思ったのです。どちらもコースも乗り越えなければいいものは出来ないのだけれど、それぞれのコースで必要とされるソリューションが違う。右回りは「知識」、左回りは「パーソナリティ」だと思うのです。僕はその「パーソナリティ」がグレーな感じで不透明でなかなか整理がつかない。あたりまえか?。
Posted by: hy at November 8, 2004 10:44 PM「パーソナリティ」がグレーな感じで不透明でなかなか整理がつかない。
上記のhyさんのフレーズ。
非常に共感します。良くわかりますよ。
常に僕もそのようなことを考えているから
上記のような長い書き込みが出来るというわけです。
僕の場合、幸か不幸か今は一つ興味ある事柄があって
この事柄を中心にものを見るようにしています。
と言うか見えてしまうのですね。
でも、「一つのことを手がかりする」ということは
「見かた」や「思考」を限定するということではなくって、
逆にそれ以外のことがらを「浮かび上がらせたり」、
「見せてくれる」ということがあるんです。
実体験として。
僕自身、思考の整理がついているか否かは別として(笑)、
今はそれを大事にしていこうと思っています。
それにしても、このテーマ。
もっと多くの書き込みがあるかなと予想していたんですが、
結構ないものなんですね?
大学院の皆さん(simonさんは除く)などはあまり興味ないんでしょうか?
反論とかあったほうが面白いですよね。盛り上がる。
(あまり辛口じゃないほうが助かります)
[シーブリーズ]21世紀美術館所蔵だね。美術館所蔵データベース
Posted by: simon at November 24, 2004 02:40 AM岩見沢駅舎建築デザインコンペの一次審査結果が出ています。
http://www.jr-iwamizawast-compe.jp/
選ばれた9名の1人である宮田節男さんは、ぼくが大学3年のときに設計を教わった非常勤講師だった方。懐かしい名前です。