インタラクティブパブリックアート

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名古屋駅前のホテル入口立っている巨大マネキン。シーズンごとに着せ替えられ前回目撃時は中日ドラゴンズの優勝にともないオレ流Tシャツが着せられていた。もちろん今回同様パンツははいない。お色気パブリックアートは着せ替えも出来ることからインタラクティブなアート。季節を無視した虹色チューブドレスに年末年始無災害のぼりとの組み合わせはなかなかアバンギャルド。高さめいいっぱいに立っているのでもしや構造体だったり?とも思ったりとなかなか楽しい。高そうな石とか鉄でできたパブリックアートもわかるけれどこの手のものもおもしろいと思う。

「カフェ・イン・水戸2004」@水戸芸術館+中心市街地

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日曜日に水戸に行って来た。
かなり大雑把な感想を言えば前年よりかなり良い。最近の水戸芸の展覧会の中でもおもしろいほうだと思う。前年は通常の展覧会よりあまり予算がさけずやむおえない感じの印象だったが今年は美術館だけで閉じず街全体をより盛り上げようという雰囲気もうかがえた。

前年、今年とみてようやく気づいたのだが、タイトル通りかなりカジュアルな展覧会である。誰がみてもどこか楽しめそうな美術ばかりで、しかもただ見るだけではなく鑑賞者が実際に体験する参加型が多い。普段、現代美術なんてという人でもおすすめだと思う。越後妻有のトリエンナーレとまでは到底及ばないがアイデンティティが失われた地方都市を盛り上げるイベントとしてはよいものである。これも東京を射程距離ととらえ活動を続けてきた水戸芸があってからこそなのだろう。来年も楽しみだな。

で、上の写真は水戸市街でインスタレーションされているアトリエ・ワン(左)、ひのさん(右)のもの。あと青木さんも出している。ひのさんは他の作家のギャラリーとして古い建屋を改修しているため、実際「使える」ものになっていて悪くはない。他の2人に関しては完全に「使える」ことは難しい感じ。そのためか建築の意味的レベルに対して批評性のある視点でひねりの効いたおもしろい作品なのだが、表現の強度として少し物足りなさを感じた。単純にいうとちょっと素人感がある。この手のインスタレーションは予算上どうしても多大なるボランティアの方々で成立してため、あるプロの作家作った作品に比べてどうしても完成度と落ちてしまうので仕方はないだが。最近、現代美術の展覧会で建築家も増えてきて見る方としてはおもしろい、よい刺激。

写真の二つをみて機能の表現とはなんなのだろうか?最近、空間をつくりこんでいく上で、モノ本来の性能や機能のみが表現されたものに出来ればと考えている。そのためか部材や加工をすくなくする方向にいくのだが、これはミニマムな表現を目指しているわけではない。どちらかというと今回の作品に近いものは感じたのだが、まだまだみえてこないな〜。

「高松次郎−思考の宇宙」 @府中市美術館

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土地とか建物の名前がもつイメージは誰しもなんとなくあるもの。
それが予想外に良い方向に裏切られたときは楽しいものである。

そんな体験を先週の日曜日にした。場所は府中市美術館。案外、蒲田から時間がかからずに目的地には着くことができた。府中市美術館はいくつか文化施設が点在する大きな公園の中に建っている。近場で例えるなら砧公園と世田谷美術館みたいなものだ。世田谷美術館と違うことは府中市美術館のほうが新しい建物ということである。一見お金がかかっている感じがしてなんとなくバブルのにおいがするたたずまい。よくもなくわるくもなくなんとも興味をそそられない建築。外見と反して中身となる展覧会はリートフェルト展など東京の片田舎府中で行われているとは思えないなかなか充実した企画が多い(最近になって気がついた)。そのため地方の美術館への巡回展となるものもある。それで今回は「高松次郎−思考の宇宙」が行われていた。

正直なところ高松次郎はハイレッドセンターのこと、影の絵のこと、この二つだけを少し知っているぐらい。影の絵はある本の片隅に白黒で小さくのっているものを見ただけだが興味をそそられていた。そんな記憶を頼りに行ったこともない土地の知らない美術館を体験してきたである。展覧会の内容は簡潔にいえばよいものだった。最近みたものの中では上位ランク。内容は充実していてなおかつ難解そうな高松をわかりやすく時系列で紹介していた。中でも本の挿絵でみた影の作品はよかった。シンプルなアイデアがそのまま表現に結びつき批評性も感じられる。磯崎新が設計した福岡銀行の応接間を高松がデザインしているのだがその原寸が復元されてい(上の写真)。また高松は膨大なスケッチを描く人みたいでその一部が公開されていて、それが結構おもしろい。ドローイングの途中段階をスケッチで展示されているのはよくみかけるのだが今回はそのようなドローイングはむしろ少なく、ダイアグラムや図面みたなもの、コンセプトや作業手順がこと細かく記されたテキストがあった。高松は頭の中で考えたり想像したりしたことを全て書くことしていたのだろうか?最近思うのだが自分が学生の時よりだいぶ手書きでもなんでもかくようになった。頭で考えていることと実際描かれるものとの違いを発見し、再確認することが思考のプロセスの上あたりまえが大事なことなのだと改めて感じた。描く精度も大事だがとにかくかきとめることもかなり大事だと思う。

夏の思い出

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去年の夏、妻有のトリエンナーレに行ったときの写真。一年早いな。

アーティストのインスタレーションによる内部空間表現はひねりが効いていて見ていて素直におもしろいと感じる。同じインテリアの空間表現でもインテリアデザイナーが考えたものはなかなか良いと思えるものがない。実際に「使う」機能の要素が両者の大きな違いではある。では機能の表現とはなんなのだろうか?建築とは構造や機能や素材を表現するものではなく物質の配置によってうまれるその場の質をつくりだすものだと僕も思っている。表現の中で、構造、機能、素材によって生まれる表現の割合がそのつど変わって最終的な質の表現が生まれる。インテリアの中で構造の表現は存在しないとなると当然、素材、機能の表現が目立つ。
最近、機能の表現とは車のデザイン中で鏡面部分にあたるのではないのか最近感じている。部位を明確にするヒントみたいなもの。ヒントの集積が空間の表現になっているとはどういうことかを考えてみようと思う。