展示する場所/しない場所の区分けを無効にすること@luxembourg
ルクセンブルクでは,前日に関係者へのオープニングが行われ,まさにその日に一般客へと公開される「Musée d'Art Moderne Grand-Duc Jean (MUDAM)(ジャン大公近代美術館)」を訪れた.1964〜2000年まで在位していたルクセンブルク大公国の国家元首であったジャン大公の名前にちなんだもの.ポンピドゥーみたいなものだ.名前は近代美術館だが,実際は現代美術を扱うところ.設計はI.M.ペイ.今更ペイの美術館なんてとも思ったが,とにかくヨーロッパの国立現代美術館のオープンに立ち会えるのならばとルクセンブルクまで行ってみた.
セレモニーでもあるのかと期待して行ったのだが,開館前には50人くらいの行列ができていただけで,残念ながら前日に華やかなオープニングは終わってしまった後のようだった.旧市街から離れた丘の上に新市街があるのだが,その端部に1732年に作られた要塞跡があり,要塞本体は博物館として整備中で,そこに隣接する遺跡のようなものの上に美術館は作られている.外観は石貼りによる最近のものとはとても思えないデザインだが,とりあえず中に入ってみた.
オープニングは「Eldorado」展.70年代生まれのアーティストも数多く含む現代美術が,全館を使って繰り広げられている.入口を入った正面に大きなガラス天井を持つホールがあり,そこには蔡国強の巨大な作品が堂々と展示してある.展示室というよりは,やはり展示室へ繋がる動線が集まるホールと呼ぶべき空間なのだが,ここもキチンと展示空間として使われている.この美術館には他にもガラス屋根を持つ大きな空間があり,大きな木までもが植えられているスペースがあるのだが,やはりそこにも作品が展示されている.いわゆる展示室然としているスペースにしても,建物全体が要塞跡に建つというコンテクストにより矢印状の平面形を持つため,菱形を変形したものとなっている.その他にも本体から独立したパビリオン状の展示室(もちろんガラス屋根),緩い円弧を描く壁を持つ展示室,メディア・アート用の暗い展示室など,いわゆるホワイトキューブと同じような性格を持ちながら,各々が個性を持った展示空間を作り上げている.しかも非常に良質な建築として実現しているのが,さすがペイと言うべきだろうか? アーティストもそれに応え,ピピロッティ・リストは菱形の展示室で見事なインスタレーションを行っていたし,ナリ・ワードのビンを吊した作品はパビリオンに展示されていたが,この空間のために作られた作品のようにすら見えた(実際は違うので,これはキュレーターの腕前だろう).
繰り返すようだけれども,建築デザインとしては前時代的なシンボリックなものと思わざるを得ないが,美術作品が置かれる場所をバリエーション豊かに提示しているという意味では,非常に新しい美術館なのかもしれない.動線も決められた順路を持たないが,あらゆる空間に作品が展示されているため,展示室と動線空間(及びロビー空間)といった区分けがほとんどされておらずに楽しく回ることができる.オーディトリアム(Mark Lewisの個展を開催中)も展示室に挟まれて通り抜けられるようになっているし,カフェやショップすらも,それらのインテリアデザインがアーティストの作品であるために展示室内に取り込まれている.パブリック・アートまでを射程に入れている現代美術にとっては,もはや展示する場所とそれ以外の場所といった区分けは必要ではなく,あらゆる場所に作品が介入可能であるということを美術館の中で再現しているのかもしれない.もちろん,そのバックグラウンドには良質な建築デザインがあることは言うまでもない.一歩間違えれば単なる商業施設のようになるだけだから.
この美術館では独自のフォントを開発して使用していたり,美術館のコンセプト,美術館建築のコンセプト,「Eldorado」展のガイドをそれぞれまとめた小冊子を無料で配布していたり(今後も無料であるかは不明),出版関係もクオリティの高いものを制作している.webも不思議なデザインで,文字と画像のページがパラレルに存在しているというルールを理解するまでは戸惑ったが,他には見たことのない独自なもの.ちょっと不親切だとは思うが.何れにしても力の入ったオープニング展を見ただけの感想なので,今後どのような活動を行うのかわからないが,1つの重要な美術館誕生の瞬間に立ち会ったような気がした.
美術 | Posted by satohshinya at August 15, 2006 1:04
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Comments
GAJAPAN82で、長谷川祐子らの座談会があります。個人的な興味も合わせてクリップ
このエントリーの美術館のことを話していました。
・サングラスを掛けないと歩けないような非常に明るい空間で、地元の人やクライアントの大公にも非常に好評のようです。ディレクターはマリー=クロード・ボー という非常に優秀な方ですが、彼女が行った時には既に全部決まっていて ~
金沢
・大きな箱を用意して、毎回展示に合わせて(数千万円の)壁をつくっていくのはコストがかかる ~その予算で、もっとアーティストを助けてあげた方が遙かにいい
建築家のキャラクタ
・(ヌヴェルはキュレーターなどと協働しないキャラクタでしょう)キャラクターとはパーソナリティのことではなく ~妹島さんと西沢さんの場合は建築家としてのコミュニケーション・ランゲージの中に「聞くこと」が入っている。 ~パーソナリティは、いかに頑固な方かよく知っています
建築家の職能
・従来の建築家は、決まった方法論とフォルマスティックな形などがあって、それを適用するという手法をとることで、同じ文脈が生まれたと思う ~今の建築家は、個別の空間に対してどういう解釈をしていくかという解釈者として機能している ~場の読み方や解釈の仕方とその結果に対して、施主は信頼とか個性を認めて(招待する) ~ただ単にある形を生み出せるひとだから、頼むということはないのは、みんな分かっている。そこまでの繊細な関係を取り結べるようになっているように思う
・(I.M.ペイは)けっこう、極端な方に呼ばれている。そういう特定の文脈を ~生かしてあげられる ~彼のクライアントは喜んでいるわけです。 ~今でもそんな仕事はある
退化しない身体
・エンタテイメントとしての、参加して楽しむ安易な参加型ではなくて、隠された参加性を若い世代は求めている ~身体を使わなくなって、頭も使わなくなると、使わないことへの、潜在的な危機感が増してくるのだと思う
~ディシプリンを課すようなアートが求められている
建築の運命
・使われていない建築は廃墟 ~建築は不滅ではなく ~性質がどんどん変わっていくのは運命 ~形あるものは全てそうなのではないでしょうか
Posted by simon at October 3, 2006 3:46 PM
全体を読んでみたいですね.その他,村田真さんのインタビューも興味あります.
Posted by satohshinya at October 3, 2006 10:03 PM
え。全文書き写せってこと!? まさかねぇ。いや、まさかねぇ。しかたがないから、写真撮って送るか。
Posted by simon at October 4, 2006 7:08 AM