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山城大督レクチャー

2010年12月16日(木)、2010年度第4回ゼミナールとして、アーティストの山城大督によりレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

山城氏のレクチャーを聞いて
長尾芽生
 山城さんのお話は最初から最後まで大変おもしろくて笑いっぱなしでした。ありがとうございました。
 今年は国内のみならず海外のアーティストのアート作品など多くの作品を見る機会に恵まれました。その中でも山城さんの作品は、見る人も含めて作品として扱っているように思いました。
 ニューヨークでの時計の展示では、全く異なる場所における人々を「宇宙」という誰にも操作できない絶対的なものによってみごとにつないでいました。これは、よく歌の歌詞にもあるような「みんな同じ空の下にいる」という概念と似ていると思います。故郷にいる家族、旅先で知り合った人、じっと連絡をとれずじまいの友達、地球の裏側の誰か……みんな同じ空の下で生きている。自分は地球に生きている60億人の1人に過ぎない。すごくベタでロマンティックだけどただの時計を作品としてみるだけで、一瞬みんな誰か自分以外の人のことを考えるでしょう。とても素敵な作品だなと思いました。
 ピアノレッスンコンサートでも日常の行動にアレンジを加えて、作品としてみるだけで普段気にしない周りの人のことを考えます。私も母がピアノの先生なので自宅にグランドピアノが置いてあります。週に3日自宅でのレッスンがあるのですが、毎回毎回同じ曲を弾いていてなかなか進まない生徒さんもいればすごく難しい曲に挑戦している生徒さんもいて学校から帰ってピアノの音がしているとチェックしたものでした。1人暮らしを始めてしばらく経った頃、ピアノの音がないことに突然物足りなさを感じました。それほど普段の生活に浸透している行為だったのだなぁと感じたのを思い出しました。
 ナデガタインスタントパーティーさんの活動は作品としての人という表現が最も分かりやすく出ているなぁと思います。自主制作24時間テレビの映像を見てて、自分も参加したいなぁと心から思いました。本当に楽しそうでした。高校の文化祭や体育祭を思い出します。一日だけのお祭り。高校を卒業するときに1番残念だったのはもう体育祭はできないんだということでした。クラスのみんなで一丸になってひとつのことに取り組むという機会はもうないんだなぁとすごく寂しくなりました。同時にこれからは自分1人で社会で闘わなくてならないんだと放り投げられた気分になりました。24時間テレビはそんなことを思って日々を過ごしている人々にエネルギーを注入できたのではないかと思います。山城さんは怖かったといっていましたが、それは山城さんが普段から、最初から最後まで1つのことを作りとおせる環境にいるからだと思います。多くの人はモノづくりの過程における一部のプロセスにしか関わることはできません。それはすごくフラストレーションが溜まっていくことだと思います。そんな人々にとって自分の中の何かを吐き出す機会だったのではないでしょうか。
 今回のレクチャーではアートってなんでもありなんだと思いました。もっと広い視野をもって日々の生活を送って行きたいです。

無題
箙景美
 「墨東まち見世2010」の「100日プロジェクト」参加アーティストである山城大督さんのレクチャーを聞いた。映像や写真の他に色々なインスタレーションのようなことをやっているようで色々な作品を紹介してもらった。
 “This alarm rings every hour.”では1時間に1回、アラームが鳴る時計を利用した作品である。同じようにアラームを設定した電波式の腕時計も利用し、NEW YORKのギャラリーへ設置する。アラームが鳴るたびにシンクロしていたりリンクしていたりする感じになる装置である。2つの時計が離れている場所にあってもつながっているというイメージが俯瞰してみることが出来る。
 “Time flows to everyone at the same time.”上の作品と同じようにシンクロする時間を体験したり俯瞰してみたりするものである。道を歩いていたらたまたま住宅から聞こえてくるピアノをもとに発想したものでピアノを利用する。「同時多発自宅演奏コンサート」を行う。住宅街において同時に50人ぐらいの人に協力してもらい、決まった時間に演奏してもらうものである。体験者はMAPを頼りに巡る。
 “People will always need people.”という作品はSLから車窓を撮影するものである。走り去っていくときの色々に人の反応が面白い。
 隅田川をつかったプロジェクトをおこなっているらしい。時計やピアノのプロジェクトで使った俯瞰してみるということとSLのプロジェクトで利用した移動するという要素を合わせたプロジェクトである。
 日常の小さな出来事の連続を俯瞰してみるということが作品になっているというのを見て、私の中で初めてのことでおもしろかった。また、時計のアラームがなったり、ピアノの音が聞こえてくるなど確かに気になることであるが作品にしようと考えない。それが現代美術として作品に出来てしまうのが感動した。
 ナデガタインスタントパーティーという他の方との活動もおもしろそうであった。最終的なものはおもしろくて笑えるものであるがそこまでにいたる過程が大変そうであった。山城さんも仕組み自身が作品だとおしゃっていた。また、そこで生まれるコミュニティーがすごい。青森でテレビを作っていらしたが、そこでは人々が盛りあがって、一つのものをいく人々の姿があった。私ももし参加していたら一緒に興奮して奇妙さに気付けなかったであろう。しかし冷静な目で第三者としてみた場合、やはり奇妙で怖いという印象を受けた。元ネタの日本テレビの24時間TVなら感動して盛りあがっていくのはわかる。私はマラソンのゴールのときは毎年感動して泣いている。私は指マラソンは面白いと思われる分類のものだと思っていた。それにも関わらずゴールにあんなに盛りあがり、感動している人々の姿にびっくりした。
 人間がたくさん集まるとすごいことが起きる。人間は不思議だ。

無題
杉本将平
 今回は、アーティストの山城さんにお話をしていただき、とても面白い内容でした。山城さんは、社会に対するメッセージなどではなく、自らの小さな発見というのをアートにしたいという狙いがあるということでした。
 最初に見せてくれたのは、腕時計が定刻にピピッと鳴る現象を使った展示でした。この実験のような展示から、吉島ピアノレッスンコンサートへと発展して行きました。同じことが同時刻に起こる現象に対して、具体的に表現できている面白い話でした。こういう話を聞くと、心の何処かにそれが残り、ピアノの音を町中で聴くと思い出してしまいそうでした。
 この後、見せてもらった作品はSLに向かって人々が手を振る映像と、風船が空を登っていく映像作品で、見た感じは何処か日常的な光景にも見えるし、異様な光景にも見える印象を受けました。これは、作製者の山城さん自身が持っている日常的な現象に対する小さな違和感が作品に現れており、それを作品の中に感じることができたためであると思います。自分自身はSLの作品が日常の中の非日常を感じることができ、好きな作品でした。
 後半のお話では、山城さんが参加されているNIP(ナデガタインスタントパーティー)の作品を紹介していただき、最初に紹介していただいた作品は、ネットで知り合った人々が集まりミュージカルのような劇をやるといったものでした。これを最初に見せていただいた時は、どういう所がアートなのかということが理解できませんでしたが「コミュニティアート」というキーワードが出てきたとき初めて山城さんの狙いなどが分かりました。NIPでの活動でも山城さんの作品の狙いなどは、最初にお話ししていただいた腕時計の作品と似た部分があるように感じました。それは、小さな発見や行動などが同時に起こることであり、ピアノコンサートもミュージカルも似た部分があるように思いました。次に紹介していただいたのは、青森で24時間限定のテレビ放送を行うというもので、先程のミュージカルの延長上のような作品でした。素人が集まって作るテレビ放送なのでやはり完成度としてはかなり低いのは当たり前ですが、山城さんのお話では、作品自体は空っぽといったものを目指していて作品を作る上でのプロセスに目を向けているとの事で、確かに劇もテレビも作成している所は面白いと思いました。こういった作品は、山城さん自身が人々にある枠組みを与える事で人々がその枠組みの中で自由に振る舞い、作品を完成させてしまう事に対し違和感を持っている事がこういう作品を生み出すのではないかと思いました。
 今回は今まで触れた事の無いアーティストの方の貴重なお話で面白かったです。話を聞いていて違和感を覚える点も多々あったのですが、自分には無い視点から物事を見る事ができとても面白かったです。

無題
堀切梨奈子
 今日は、短い時間の中で、アーティストの山城大督さんに、『山城大督』としての作品と、中崎透さん、野口智子さんとのユニット『Nadegata Instant Party』での作品の両方を紹介していただきました。とってもわくわくした2時間でした。
 『ピアノレッスンコンサート』。私はいつも、家でピアノの練習をする時に、ご近所に聞こえている事や、どこかから聞こえて来る顔も名前も年も知らないライバルをしっかり意識して、調子のいい時は窓をあけたり、うまく弾けない日は雨戸を閉めたりしています。
 『People will always need people』。SLに手を振る人、写真をとる人。あのスピードも、毎日どこかに出かける時に乗る電車で、感じる世界を思い出させてくれました。乗っているのはJRだけど、山手線や京浜東北、相鉄線と並行して走る時や、反対方面に向かう電車とすれちがう時に感じる不思議な距離感。
 他の、『the alarm rings every hour』も、風船の作品も、山城さんが『山城大督』として制作された作品は、私たちの生活に、どこか近くて、ちっちゃな毎日のシーンを少し特別に感じさせてくれるものでした。
 『Nadegata instant party』としての作品を紹介してくださる中で、山城さんから沢山でてきた言葉は、くだらないこと、やばい、すごい。どうなるのかはわからない、人の構造をつくって、それを全力で楽しんでいるのに、『やばいよねー』と楽しそうに話す山城さんがとても印象的でした。
 とくに、『24 our television』での、全力本気の人たちの集合体の迫力と、それに一歩引いたコメントをする山城さんが印象深かったです。それとなんでか少し、そのコメントに、安心に似たような気持ちも覚えました。きっと、あの沢山の人たちの全力と本気は、目の前にあるものを、よりよく、楽しく作り上げるだけで、評価や目的を気にしなくていいとゆう【くだらないこと】だからこそ出るものなのだろうなと感じました。突っ走るだけでいい状況や、そうゆう風に思えるシーンは、なかなか普段の生活の中では出会えなくて、後先を考えがちです。だから、あの構造物から生まれる全力は、すごいパワーをもっているのだと、私は思いました。
 『24 our television』や『offline instant dance』は、本当に楽しそうで、やっている人たちもみんなキラキラはじけていて、全力のヒトの面白さを感じました。

山城大督氏によるレクチャーを受けて
中山英樹
『The alarm rings every hour.』
 2つの腕時計がある。そして1時間ごとに同じタイミングでアラームが鳴るようにセットし、1つは持ち主が身につけ、もう1つはある場所に置いておく。別々の場所、時間に存在する2地点をアラームが鳴るたびにリンクさせる。ふとした瞬間に何かを思い出すときがあると思う。きっかけは匂いであったり、音楽であったり、味であったりするかもしれない。偶然に何かを刺激して、関係のないものを一瞬にしてつなげる。そういったシチュエーションを意図的につくり出してしまったのだと思う。この前段階に行っていた、「身につけている時計のアラームを1時間ごとに鳴らすことで、感覚的な時間と実際の時間との間にあるギャップを体感する」というものもそうだが、日常にある“気づき”を演出している。だから、想像力を掻き立てられるのだと思う。
『Time flows to everyone at the same time.』
 ある町のピアノを持った人々が一斉に練習を始める。ある日、ある時、ある場所で、偶然散歩をしていると、いきなり始まるコンサート。そんな情景を思い浮かべて心が躍った。映像では表現できないライブ感があると思う。映像にとって音楽は大切な要素であるが、音楽を映像化することの難しさも感じた。
『People will always need people.』
 SLの車窓から見える景色を黙々と映像に残す。今では珍しくなってしまったSLに向けて手を振る人々の小さなコミュニケーションが続く。ミニマルなBGMが流れることで、小さい行為の連続がスムーズに繋がっているように感じた。自分から手を振るわけではなく、ソトからの一方的なコミュニケーションを受け続けるということ、また、その対象は転換地点であり、移動しているということは面白いと思う。果たして、これらのコミュニケーションはどのような軌跡を描いて、どこに帰着していくのだろうか。気になる。
『24 our television.』
 氏の所属している「Nadegata Instant Party」による作品。1日限りで架空のテレビ局を開局し、24時間のテレビ番組を放送するというもの。さらに市民100人をスタッフに迎え、地元のメディアも参加するという驚きのアートプロジェクトである。ところどころにパロディを潜ませ、壮大なおふざけのような企画あり、それらを本気で盛り上げる、つくり上げるスタッフ。部分の映像を見ているだけでも面白い。しかし、客観的にみてみると一転する。コワイ。恐ろしいのである。どう恐ろしいのか、それはある種の新興宗教的な、はたまたマツリにおける熱狂のようでもある。ある集合体のもつエネルギーが、ある枠組みを通して内に発散していくという様は、インターネットというメディアととても相性がいいのだと思った。
 作品を作るうえで土台になる、作者の生活における“気づき”を表出させて、作品にあたる部分を“からっぽ”にしたい、と氏は仰っていたと思う。ぼんやりと分かったような気がする。いや、難しい。しかし、そこに想像力を掻き立て、心に響いてくる作品創りができる所以があるのだと思う。

山城さんのレクチャーを聞いて
堀木彩乃
 山城さんのレクチャーを聞いて、私はもうすこし日々のなかにアンテナを張ろうと思いました。中でも私が共感したお話が、時計のお話です。2つの腕時計が毎時間規則正しく同じ瞬間に鳴る。離れている遠い場所の事を、時計がピピピとなる度に思い出す。
私はたまに、夜中にぼーっとしていたり電車から外を眺めていると、同じ時間の流れの中にあるこの瞬間に、となりの家の中、私の知らない街、地球の裏側の国、海の深く暗い場所では何が起こっているのだろうと考えることがあります。それを考えることはとても不思議で、少しわくわくして、おそろしいくらい果てしない思考のような気がします。同時に離れた場所で起こっている出来事だから決して私からは見えない世界だけれど、それは確実にそこに存在して同じ時間を刻んでいるはずの世界です。
 山城さんは、それを2つの腕時計のアラーム機能を使って感じ取っていました。レクチャーの最中にも1時間ごとにピピピと音が鳴りました。お話を伺ってからそのアラームの音を聞くと遠くにあるもう1つの時計が頭の中によぎります。私が置いたわけではないけれど、話を聞いただけでそれはただの時計のアラームではなく、山城さんがおっしゃっていたように一瞬にして2つの時計の間をワープする合図のように感じました。いつも私が考えていた見えない世界の一瞬よりも、もっとリアリティのある感覚だったと思います。
この感覚は、50軒のお宅に協力してもらって実現したピアノレッスンコンサートでも同じことが言えると思います。同じ時間帯に同じ住宅街の中でピアノの音が聞こえてくる。それはなんとなく通り過ぎてしまえばただのひとつの現象で終わってしまうけれど、ある時間になったら同時にピアノの音が聞こえるというのは、不思議なことだと思います。それは、聞こえていない少し離れたピアノの音すら感じてとってしまう体験です。
 時計にしてもピアノレッスンコンサートにしても、山城さんが表現したかったことは、そこにある現象ではなくて、そこから感じとる感覚なのだと私は思いました。
 目に見えない感覚は、うまく言葉で表現できないけれど、私が間違っていないのならば、私は腕時計がレクチャー中に鳴った時に、山城さんが伝えたかったものを感じ取れたような気がしました。
 24 OUR TELEVISIONでは、山城さんは、企画に熱くなる人々をみて恐怖すら感じたとおっしゃっていました。一歩下がってみたらくだらないという人もいるかもしれないことでも、その輪の中に入って魅了されてしまうと、がむしゃらにやり遂げようとする。それが全てになる。そういう感覚を私も体験したことがあります。
なぜ夢中になるかの理由ですが、わたしはひとつ気付いたことがありました。それは、ひとつひとつのプロジェクトを楽しそうに笑顔で話す山城さんの姿でした。今回紹介してくださったプロジェクトは全て人が関わっていて、それは大人数だったり小規模だったりと様々でしたが、参加者はきっとあの笑顔に引っ張られるようにプロジェクトに夢中になっていったのではないかと思いました。

山城さんのレクチャーを聞いて
伊藤由華
Time flows to everyone at the same time
 まち全体でのコンサート。素敵だなと思った。空間的にも面白いし、何よりもそうとは知らずにそこで生活している人とかを想像すると面白い。私がもし、その街に暮らしていて、ピアノレッスンコンサートがあることを知らなかったとする。自分のまちの中に急に知らない人がたくさん来て、なんか知らないけど家の前に立っている。考えると何ともシュールな絵だなと思う。同じ場所で同じお時間で、同じ音を聞いているのに、たぶん意識のある場所は全然違うんだろう。方やイベント気分でまち全体を作品のような非日常的なものとして捉えているかもしれないが、もう片方ではそれは日常以外の何物でもないのだから。日常の中の私はいつも通りの駅までの道を歩きながら、そこらじゅうから流れてくるピアノの音を聞く。下手なのがあれば上手いのもあるだろう。はたして私がそれに気付くことができるか甚だ疑問に思う。でも、気づきはしないけど、なんだか今日の通学路は楽しいなくらいに感じていたらいいのにと思う。気づいてもいないのに、つられて鼻歌でも歌ってたら心底面白いんだろうなとも思う。
People will always need people
 SLから見た人々をとり続ける。私はこれが一番好きだと思った。映る人映る人皆手を振っていて、なんだかくすぐったくなった。特に、いつまでも手を振り続けている人とかを見ると、自分が田舎から見送られているようなちょっと暖かい気持ちになった。近所のおばさんに「行ってらっしゃい」と声をかけられたときに似ているかもしれない。しかも、この映像ではそれが永遠と続くので、くすぐったさエンドレである。たまに手を振りもせずに見つめてくる人や、振り終わったらすぐに踵を返して帰って行ってしまう人などもいたがそれでも一応見に来るんだなとか考えていると飽きがこなかった。

山城さんのレクチャーに関するレポート
吉岡未央
 スライド室に入って、パソコンの前に座っているのはTAだと思っていた。現代アートと呼ばれる分野の先駆者は、もっと奇抜で風変わりな人であるというイメージのような偏見のようなものを、山城さんに一掃された気がした。山城さんの学生のような雰囲気(実際に大学院生ではある)が、そして友達と同じような語り口が、なんとなく敬遠していた現代アートの敷居を低くさせた。
 印象的なのは、蒸気機関車からの映像である。着眼点が面白かった。それに、どうしても何か結果を求めてしまう考え方に陥ってしまう私が、単純に「カレーが好き」と同じような感覚で「この映像好き」と感じることができた。ようやく、絵画を鑑賞するときと同じ感覚で、現代アートと呼ばれるモノ(彼の感性)に触れた感じがした。
 赤坂のお祭りで行った即興演劇や、青森の24" our TVは、いまいちピンと来なかった。彼のロマンチストさやその表現方法が、nadegataに加わると豹変することは分かった。というより、アートの幅が広いと感じて驚いた。しかし理解するとか感動するとかではなく、今回は第三者として見た感想は「面白そう」であった。こういう波が、アートに限らずいろんなところで生まれて広がっていくから、人の繋がりが構築されていくのではないか、と感じた。さらに、これらのプロジェクトは、構築されて行く過程をアートとして具体的に表現していると思えば、私は「これが彼のアート作品である」と、感じることができる。
 最後に紹介していたプロジェクトは、青森と似たものがあったが、地域を巻き込んで行うプロジェクトというのは地域活性に直接的に繋がる。どうしても利益を考えてしまうが、傍から見たらボランティア精神と捉えられてもおかしくない、nadegataの掲げるテーマやメソッドは、楽しそうで羨ましい。
 それでもやはり、自分には決してどっぷりと浸かることのできない領域であるな、と感じたのも事実である。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 24, 2010 3:28 | TrackBack (0)

『完全避難マニュアル 東京版』鑑賞

2010年度第3回ゼミナールとして出題された、2010年10月30日(土)〜11月28日(日)まで開催されていた『完全避難マニュアル 東京版』鑑賞に対するレポートである。

完全避難マニュアル 東京版レポート
箙景美
 田端→池袋→代々木→秋葉原→浜松町の順番で最終日に5か所めぐった。
 田端では酒屋で飲み物を買い、さらに会計の際に地図の続きをもらいその場所に行く、というものである。最後に「まれびとハウス」というシェアハウスでありイベントスペースにもなっているところにたどりついた。
 池袋はF/Tステーションから地図と赤と黄色の標識に従って避難所に向かった。避難所は駅の目の前にある建物の三階であった。そこはネットカフェに近い雰囲気で「個室都市 東京」のDVDが観れるようになっていた。DVDの内容は色々な人にインタビューするものだった。
 代々木では言葉で書かれた地図に従って目的地に行く。地図には張り紙に書かれていることも書いてあった。最後に書かれた『本のある、たくさん本のある、私たちがそこでたくさんの言葉を閲覧し、借り出す事の出来る、その場所へ、入っていく。』という指示に従って建物のなかに入っていった。ついたところは図書館カフェHABI ROADであった。そこでは飲み物を飲みながら置いてある本が読めるところである。私はハーブティーを飲んだ。ハーブティーなのに普通に日本にあるお茶みたいだった。店の人がマコモという植物を使っていると言っていた。店の人によるとマコモは体にいいらしい。店の人は色々なことを知っていて話が面白く一時間くらい聞いていた。
 秋葉原ではラジオセンターの4階に避難所があるのだが地図で見たより場所がわかりにくくたどりつくのに大変だった。スタッフオンリーのところをさらに奥に行くときは躊躇した。避難所ではコスプレした女の子と15分話が出来るというものであった。私はにぼしさんと言う人と話した。今季のアニメはなにがいいかおしえてもらった。最後におみくじを引いた。エルシャダイのイーノックの「大丈夫だ、問題ない。」が当たった。色々お話してストレス発散した。
 最後に浜松町に行った。夜景がきれいだった。田端で買った酒を飲みながら夜景を見た。よい終わりかただ。
 現代社会からいかに避難してこれから生きていくのかを考えた。自分の「避難所」がないと生きていくのにつらい。完全避難マニュアルで色々な「避難所」を発見し、体験するのはいいことだった。また色々な人と交流出来よかった。

作品に参加して
田島雄一
 インターネットで公開されている作品についての説明には、本作は、観客がインターネットから参加する演劇作品とされていますが、インターネット上で指示された場所で何が起こるのか、そもそも何をしに行くのかがわからず、初めは戸惑いました。まったく知らない場所に向かう、しかもそこで何をするのかわからないという経験は普段の生活ではまずあり得ないことで、作品に参加した一日は自分を離れた場所から客観的にみているような、まるで現実の世界ではないような、不思議な感覚でした。自分の演じている劇を全く同じ時間に客席からみているような感じで、人を誘導するシステムのみを設計するこの作品の手法はまさにフェスティバルトーキョーの「演劇を脱ぐ」のテーマのとおり、観客と舞台との距離を取っ払った、まったく新しい視点からの演劇の鑑賞だったと思います。
 今回作品に参加するなかで、自分と同じ大学生以外にも高校の先生、秋葉で働くおじさん?や詩人の方など普段はまず話す機会のない方達と接することができました。掲示板やブログ、最近はTwitterなどでコミュニティをつくって世界中の人たちと交流をもてるようになりましたが、あくまでウェブ上であって実際に会って話すという機会はほとんどありません。また結局は似た者同士が集まったコミュニティになってしまいます。しかしこの作品に参加したことで出会う人たちは、ネット上のように似た者同士のコミュニティではなく、自分とは全く違った人たちばかりで、今までにない本当に貴重な体験でした。
 コミュニティと観客が出会うためのシステムの設計というのは建築の設計のように目に見えるものではないのですが、目に見えないなにかによって実際に自分が誘導される感覚にこのシステムのすごさを感じました。作品を通して今までと全く違う視点から物事をみつめることができ、その大切さを実感しました。

『完全避難マニュアル 東京版』体験レポート
中山英樹
 「フェスティバル/トーキョー10」関連作品の1つとして演劇を脱ぐ、「脱・演劇」を掲げたものである。という少ない知識だけを携えて、私はとりあえず体験してみようと思いネットにつなげた。何も情報を持っていなかったので、いつ・どこで上演しているのかというのを調べにホームページへとんだけれど、まずそこで驚いたのがいきなり始まるアンケートである(過去の作品『個室都市 東京』から考えればインタビューという単語のほうが望ましいのか)。ここで機械的に繰り出される質問に答えていくと、山手線各駅の付近に設置された避難所29ヶ所のうちの1ヶ所への行き方を教えてもらえる。これは回答者の答えによってそれぞれ違った場所へと導いてくれるので、なんだか自分の居場所を与えられているようで、安心というか期待というか不思議な気持ちになった。私の居場所は“池袋”である。
 最寄りの駅から山手線にのり池袋をめざす。電車に揺られていると、『完全避難マニュアル』のロゴの入った紙と地図のコピーをもった一群が途中の駅で降りていくのを見かけた。「ぁ、この人たちはここが避難所なのかな」と小さな仲間意識が生まれ、また、今この電車には一体何人の避難民がいるんだろう、なんて思いもした。そうこうしているうちに池袋に着いて、地図のスタート地点に行ってみると、ロゴと矢印のついた道案内が申し訳程度に付いているのを見つけた。ちょこんとしていてかわいい感じだ。知らない人は気付かないレベルでの意思共有と点々と現れる誘導にわくわくしていた。なんだかRPGのようである。どんどん導かれ、ときには上り、ときには下り、商店街のような場所も通った。ゴールへと着いてみるとスタート地点のすぐ近く。まんまと踊らされたような気がした。避難所へは小さなエレベーターへと乗って4階で、ビルもひっそりと静かで隠れ家のような佇まいである。すこし不安もあったけれど、おそるおそる入ってみる。4階についてみると怪しげなカフェのようなものがあり、なかは避難民で賑っていて、なんとも不思議な空間が広がっていた。そこでは、過去の作品でもある『個室都市 東京』の映像作品が観れたり、避難民同士でコミュニケーションをとれたりできるようになっていて、避難民初心者の私に避難方法を教えてくれる親切なスタッフがいた。私はひとまず映像作品を観てみることにして、個室にこもった。面白かったけれど、コミュニケーションを取りに来たのに、なんか違う、と思い他の避難民とテーブルを囲んでみた。そこには様々な人がいて、学生で私と同じように大学関連で知ったという人や、なんか街中のロゴが気になってふらっと訪れた人、お話は出来なかったがさっきまでアーティストの方もいらしたようである。この都市から隔離された場所にこれだけ別のベクトルを持つ人間が出ては入っていく空間があるのだなんて、見えなかった可能性が広がるような気持ちになった。1つの完結した場が存在する点で「イヴの時間」というアニメーション作品が頭に浮かんだ。その日はその場所だけで家路についたが、違う避難所にも行ってみたいと思った。
 演劇には演者と観客という役割が存在すると思う。観客が作品の一部となる体感型のものもあるが、『完全避難マニュアル 東京版』では客である主体の自分が演者と観客を同時に演じているように思う。それはHPを開いた時点で始まっていたのか。ずっと続いていたものに気付かされただけなのか。ただ私は今回の体験で自分の中に持っていた“演劇”という言葉を壊されたような気がする。自分なりに「脱・演劇」の一端に触れられたのではないかと思う。

完全避難マニュアル 東京版感想
堀木彩乃
初めてその名を聞いたときはなんの事だかさっぱりわかりませんでした。完全避難マニュアル 東京版?避難所を巡る?……防災関係のプロジェクトかな?と、見当違いな予想をたてたりしました。インターネットで検索し、誘導のままにクリックしていくと、たどり着いたのは『日暮里』という駅名。こうして私はこのプロジェクトに足を踏み入れることになりました。
最初に避難所に向かった日、時間は夕方過ぎであたりはもう暗い時間でした。あいている避難所を探し、大崎へと向かいました。頼りになるのはシンプルな地図だけ。目的地についてみると御世辞にも新しいとは言えない小さなビルでした。「え?ここ?」と何度も建物の形を地図と照らし合わせて確認。でもどうやらここのようでした。「入っていいのか……」とおそるおそる足を踏み入れ、目指す部屋番号のドアの前へ。囲碁の会の看板が気になりながらもノックをすると、出ていらしたのは老夫婦でした。奥さんが「なに?」という表情を浮かべたので本当に間違えたかと思いました。しかし奥から顔をのぞかせたご主人のおじいさんが、部屋の中へと招き入れてくださいました。
避難所ってこういうこと?と驚いたのを覚えています。初めて訪れた避難所は、あまりにもこじんまりとしていて、あまりにもプライベートな空間に感じたからです。初の避難が囲碁の会の一室。囲碁ができないことを告げると困った顔をされました。「本当はここで囲碁の対決をしたりするんだけどね。」そう言いながらおじいさんは「これを渡す決まりみたい。」と、一冊の本をくださいました。それは村上春樹の小説でした。『次の避難所へのヒントがあります』という添え書き。『ここはどこでしょう』というしおりのページには銀座のあたりの描写。次の避難所は銀座の近く、有楽町でした。
その後、しばらくご夫婦とお話をしてから避難所を後にしました。初めて来た大崎で、さっきまでまったく知らなかった人と世界共通語についての話をしました。それは非現実的でとても不思議な体験でした。もう二度と会う事はないかもしれないけれど、帰り道は避難所に向かった時の道とは全く違って見えて、楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。
大崎、有楽町、浜松町、鴬谷、池袋。決して行った避難所の数は多くありません。鴬谷では避難民の方たちと輪を作ってお酒を片手にいろんなお話をしました。初対面なのにあれだけ楽しく、まるで昔からの友達のように和やかな空気が流れていたのは、避難所にきている仲間というだけでつながることができたからではないかと思います。知っている人しか知らない楽しみであって、なんだか秘密を共有しているような感覚になりました。
そして、全てに共通して言えることは、特になにがあるわけでもないという事です。囲碁の会でも、セットのようにそれが作られたわけではなく、私がそれを知らなかったときから当たり前のようにそこにあったものです。言ってしまえば、そこにある風景を見に行きそこにいる人に会っただけなのです。それなのにこんなに楽しくて不思議な気持ちになるのは、その風景をいつも私たちが見落としてしまっているからなのかなと思います。
改めて示されたその避難所を、そこを意識して目的地として向かうと、急になんだか特別な場所、風景になりました。
きっと、意識をすれば、今回の避難で感じたような新鮮な気持ちは周りにある日常からも拾う事が出来るかもしれません。そう思わせてくれる、とても楽しいプロジェクトでした。最後に、なぜか日暮里に行くのをすっかり忘れてしまった事だけが残念です。

完全避難マニュアル 東京版 品川にて
伊藤由華
品川では手相を見てもらえるという情報を聞き、私は予約の電話を入れた。なんとか無事に手相を見てもらえることになり、一路品川へ。地図で示された場所についたはいいが、避難マークが見つからず、マクドナルドの前の休憩所を何気ない顔で何度も行ったり来たり。要するにただの不審者である。一組み一組み遠目から確認してみてもやっぱりいない。どうしたものかと座って休憩して見ても、やっぱり目的のマークは見つからない……。
結局しばらくしてから心が折れ、電話で本部に確認するという何とも情けない手段でマクドナルド内にいた目的の人物を見つけ心底安心した。この不自然な待ち合わせは、周りの人から見たら面白いのかもしれないな、と思いながら席に着く。まずは意気込みたっぷりに、就職活動について聞いてみた。簡潔に言うと結果は無理かもしれないとのこと。思わず笑ってしまった。なんでも、内定の線がないらしい。一応そのほかの線も見てもらい、自分の特性などを聞き思ったより早く診断は終了してしまった。これじゃあ早すぎるかな、とそのあと手相を見てくれたおねえさんとぐだぐだ話してみたが、就活に対するアドバイス等をくれたりとおねえさんは非常に親切な方だった。偶然出会ったわけではないけど、お互い顔を知っていたわけでもなく、まったくの初対面のおねえさん。話していると、彼女にも彼女の生活とか歴史とかがあるんだなとなんだか妙な感覚に襲われた。RPGっぽい出会い方故におねえさんのことをあまりリアリティーのない存在だと思い込んでいたらしい。今思えばなんだか不思議な体験をさせてもらったなぁとしみじみ思う。
ちなみに現在も私に内定の線はなく、自分の爪で溝をつくる日々続いている。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 6, 2010 8:58 | TrackBack (0)