目の前にある構造

以前,佐藤光彦さんの『梅ヶ丘の住宅』を見たときのこと.何も知らずに,真ん中にある螺旋階段を上り下りしていたところ,ふと手に触れている階段室の曲面の壁が,固い金属でできていることに気が付いた.「もしかすると,これは構造体ですか?」と,光彦さんに訊ねたところ,「そうだよ」との答.16ミリ(だったと思う)の鉄板を曲面にし,平面中央に設置することで水平力を受け持ち,最低限の断面による鉄骨が外周部を取り囲み,その軽快な構造体により鉛直力を受け持つ.構造は池田昌弘さん.構造計画としては非常にモダンな回答.
この住宅も,みかんぐみ『上原の家』のように,1,2階はほとんどが壁に囲まれているため,もっと断面の大きい柱を壁の中に忍び込ませることも可能である.しかし,地下では光を落とすハイサイドライトが隣地を除く三方を囲んでいるが,最低限の鉛直力を持つだけの構造体は,その開口部をほとんど妨げることがない.結果的に,構造のあり方をそのまま意匠が表現している.
構造体はどのような建物にも明確に存在するが,それを可能な限り意識させないように表現するという考え方がある.例えば,構造体を可能な限り最小の断面とすることで,存在感の小さなものとする方法は代表的なものである.しかし,この住宅では,目の前に見えていながらも,それが別の用途(ここでは螺旋階段の手摺)として存在しているため,構造体とは気が付きにくいという方法を取っている.

構造の遍在

建築の構造体が遍在しているのは当たり前のことである.柱や梁,壁は,建築空間の中にいれば,至る所に存在していることがわかる.例えば壁構造の建築であれば,目の前にある壁の全てが構造体であろう.もし構造体が偏在しているのであれば,おそらくアクロバティックな構造形式を取らなければならない.
みかんぐみ設計の『上原の家』を見た.構造はArup Japanの金田充弘さん.この住宅でも構造体は遍在している.ただし,本棚という姿に変えて.その本棚は,自らを構造体であると主張することなく,そのそぶりを見せずにあちらこちらにあるため,構造体ではないだとうという錯覚を起こす.
モダニズム建築においてル・コルビュジエは,列柱に支えられる床と,構造的な役目を持たない壁を分離した.所謂,「自由な立面」.その究極的な住宅がミース・ファン・デル・ローエの『ファンスワース邸』で,8本の柱に支えられているため,全ての外壁がガラスとなっている.その意味では『上原の家』も,「住宅特集」4月号や「建築文化」4月号で紹介されている建て方の写真を見ればわかるように,列柱状の本棚のみが構造体になっているため,本棚以外をガラス張りにすることだってできる.しかし,そうなってはいない.むしろ,この住宅は壁に囲まれている.
その代わりに,ここでは工業製品による薄い壁が実現されている.外部も内部も一律に工業的に仕上げられた,美しい既製品が選ばれている.ジョイント部分も工業化の恩恵を受けているため,室内にいると,飛行機や新幹線の内部にいるかのような感覚を受ける.この感覚は,今までの建築にはなかった質を実現している.
一方で,『上原の家』を視覚だけから見ると,どのようなことが考えられるだろうか? この住宅はガラス張りではないわけだから,壁を構造体として使用することもできるはずである.同様な仕上げを内外部に用い,その隙間に柱を入れればよい.意匠的に壁の薄さを強調している部分もないため,壁が厚くなることは問題とならないだろう.そうすれば,わざわざ本棚が遍在する必要もない.しかし,当たり前の話だが,建築は視覚だけで体感するものではない,ということを考えさせられた.

近代建築をめぐる12年前の話

僕がレム・コールハースに初めて会ったのは12年前である.『行動主義 レム・コールハース ドキュメント』瀧口範子(TOTO出版)にも触れられているが,日本大学理工学部で行われた「都市講座」のときであった.その3日間のレクチャーを書き起こした中から,ほんのわずかな部分を取りだして「建築文化」1993年1月号に掲載した.近代建築との距離ということで,この言葉を思い出した.12年後の彼の作品を考えると当然のように思えるが,当時の僕にとっては状況を正確に批評するショックな言葉だった.
《確かに私にとっての隠れた英雄というのは明らかに近代建築の人達であります.彼らは大変重要な基準を設けてくれたと思います.私の作品も1988年までは初期の近代建築の特徴を顕著に現していました.特に80年代のポストモダンの爆発的な影響の中では,初期の近代建築に倣ってつくることは必要であり,容易であると思っていました.しかし,私はあまりにもそれらに依存していたので少し不安になってきたのです.単なるノスタルジアから,審美的な要素だけからそれらを非常に尊重してしまったのではないだろうか? 私達の20世紀という非常に信じられないような変革が起きている時代の中で,建築だけが古いもの,70年前のものに対してオマージュのようなものをつくってゆくことが,果たして正当な方法なのだろうか? 私は自分の創造力を本当に必要なところだけに用い,それ以外は既知のボキャブラリーに頼る方がよいと思っていました.しかし,最近の私の作品には近代には例のないようなスケール,プログラムが関わっており,とても今までのボキャブラリーではつくれないものが出てきたのです.それから,私自身も驚いているのですが,私は少しオリジナルになりたいと思い始めているのです.建築を始めたときには,私はオリジナルにはなりたくない,自分は決して独創性を発揮しなくてもよいと思っていました.しかし,今までの方法に飽きてしまったからなのかもしれませんが,最近は新しい発明や発見に関心を持ち始めているのです.》

ズレているモダンな構造

佐藤光彦さん設計の『巣鴨の家』を見た.構造はアラン・バーデンさん.何れ雑誌にも発表されるだろうが,アランさんのホームページを見てもらうと話が早い.それほど大きくない住宅だが,3世帯4人(夫婦2人,親1人,姉妹1人)が住む.その生活を成立させるための部屋の構成の是非については判断が付かないが,その構成を了承したとすると,構造の解決方法は興味深い.
2階部分のエキスパンドメタルに囲まれた外部(!)は1本の柱で支えられているだけで,外周にはブレースがなかった.当然全てS造だろうと思ったら,光彦さんに木造だと言われた.もちろん,2階部分の柱と,その上下のフレームはスチール製であり,実際にはハイブリッド構造である.どちらかと言うと,材料の特性(強度,重量),経済性などを考慮した構造形式は,合理的なモダンな構造であろう.しかし,部屋の配置による空間構成が通例とは異なるため,合理的な構造でありながらも,それほど合理的には見えない.
更に2階部分の柱は,蛍光灯による照明が取り付けられ,ポリカーボネート板に覆われているため,構造上で必要なスチールの柱に対し,意匠上はかなり太めのポリカの柱が支えているように見える.柱を細くすることで構造体を意識させない,構造技術に寄り掛かるだけのモダンな方法ではなく,構造体でありながら,それを別のものとして認識させている.
もちろん,この住宅のスチール柱の太さは非常に細く,モダンな構造を突き詰めた上で,それが少しズレていることにより,おもしろさを獲得しているのだと思う.

ポストモダンな構造

構造設計チームとして参加した建築が昨年完成した.『中国木材名古屋事業所』がそれである.意匠設計は福島加津也さんと冨永祥子さんご夫妻.実施コンペにより実現したものだが,構造設計を担当していたのが僕の大学の同期だった多田脩二で,そのため構造チームに加わることとなった.岡田章さん,大塚眞吾さん,宮里直也たちとともに,実施設計に向けて頻繁に行われたミーティングに参加することとなった.
提案の中心となったのは,木材事業所の事務空間の架構.木材による吊床版として,並べられた木材にケーブルを通し,それを両端から吊すことで屋根をつくるというものだった.施主が木材納入・加工業者であったことから,かなり過剰な数量の木材を面的な構造体として使っている.正確には半自碇式の吊り屋根構造と呼ぶらしいが,この「半自碇式」という言葉が構造設計界では話題になっているという話も聞く.詳しい構造的な話は,4月中旬に発売になる「建築技術」5月号に,多田と岡田さんによる解説文が掲載されるらしいので,そちらを読んでほしい.
構造チームに属していながら僕は構造の専門家ではないので,イメージだけの感想でしかないのだが,モダニズムの建築が持つ明快で経済的な構造形式と比較すると,この構造は非常に不思議なバランスで成立しているように思う.もし経済的な要求のみを優先した場合,今回のような構造への木材利用は必ずしも有効ではないかもしれない.しかし,これは別に否定的な意味で言っているわけではない.
構造材である木材をそのまま天井仕上げ面として見せるために,長さ3メートル,幅120ミリの集成材を136本並べ,7本のケーブルを貫通させ,更に厚さ9ミリの鉄板を貼ることで1つのユニットをつくり,それを11ユニット並べる.つまり,この曲面を描いた天井(屋根)面には1,496本の集成材が敷き詰められていることになるのだが,微細に見ると,変形の少ない集成材の使用と,正確なプレカット加工という工業的な技術によって,たった150ミリの厚さの中でケーブルと鉄板によるサンドイッチ構造が成立しており,俯瞰して見ると,それが16.5メートルのスパンに吊り下げられることで,緩やかな曲面が決定され,自己釣り合い系の構造が成立している.
部分と全体の関係が一繋がりの線的な関係を持つモダニズムの関係と比べると,この建築の部分と全体の関係には明らかな断絶,もしくは飛躍を感じる.微細な構造によって,ある性状を持つ材料(ここではサンドイッチ版)を生み出し,まずはそこで一段階が終了.次の段階では,ある材料の特性を活かした全体の構造(ここでは吊り構造)を成立させている.それらには,決定的な連続性はない.もちろん,連続性はあるが,それぞれは交換可能な関係を持っているように思う.
そこで,例えばこのような不思議なバランスで成立している構造を「ポストモダンな構造」と呼んでみたらどうだろうか,と思っている.