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コーンから世界遺産まで

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街を歩いていたら「擬木」ならぬ「擬石」を見つけた。
浅草寺の参拝者用通路へ車の乗り入れを防ぐ「車両進入禁止」のコーンである。 景観上、工事用コーンでは困るからなのだろう、結果として石「みたいな」コーンが選ばれたのだろう。 もしくは「石みたいだから車が恐れて直進していない」とでも思ったのだろうか?もし景観に対する配慮があるのであれば、木で組んだ標識に墨で書かれた気迫の文字「車両進入禁止」があったほうがよっぽど良かった気がする。外国人に人気がある観光スポットですら、ディズニーランド的景観感覚しか持ち合わせていない。 浅草寺の本堂や塔自体がコンクリート造作られていることを考慮すると、伝統的建造物もしくは景色に関するこのような景観感覚もいやもえないか。

このように、伝統的建造物に対する景観感覚を憂いていると、資本主義者ぶった人が経済の話を振りかざして対抗してくるだろう。 しかし、今直ぐしか有効でない短期的な利益を追うよりも、観光資源としての価値や快適性をなど長期的かつ多面的視野で試算されることを願うばかりである。

話を分かりやすくするために、コーンから世界遺産へ話題を拡大してみる。
世界遺産・平等院鳳凰堂の背景には高層マンションが建っている。 「浄土の世界に現世写り込む」といっても決して詩的には聞こえない。 このマンションは、開発業者や建設会社に確実に短期的利益を与えた。しかし観光資源としての長期的な利益を明らかに阻害した。さらには、周辺の土地が持つ付加価値さえも下げるだろう。

一時期は「東京の景色は世界的に類を見ないバラバラさが価値」などといって、盛んにその無秩序さを魅力として鼓舞する意見があった。 しかし、敷地内行われる建築所有者やデベロッパーの建築的暴狂は過度の自由を謳歌し、これによって日本の風景は醜悪化してきた。これに対して制定されたた「景観法」は評価されるべき流れだろう。 しかし、この法律の制定は日本の景観調整の第一歩である。 適切な運用には市民や企業の意識改革が必要だろう。 仏蘭西では、景観に対する責任と強力な権限を国持つ一方で、経済システムや市民の意識など様々なレベルでの景観意識もかなり強い。 「景観は公益である。」と法律の条文で謳っているいるくらいだ。

コーンから世界遺産まで脈々と続く日本人の景観感覚。 「景観法」という改革のきっかけを掴んだ今、この手強い相手に国民全員で向かって行きたい。

願いを込めて、先日見つけた初春の桜を・・・・
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Dialy / 日常, Paris / パリ, Urbanism_City / 都市 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 3 24, 2008 0:50 | TrackBack (0)

卵が先か、ニワトリが先か? 建築士が先か?日本社会が先か?

先日、一級建築士事務所を開設した管理建築士もしくは経営者を対象とした
「新規開設建築士事務所講習会」と言うものに行ってきた。

大きな柱は
1.設計事務所(一級建築士)の義務
2.設計事務所の管理と運営
3.設計・監理に関する紛争
講習の内容は、「業務をする時は契約すること」、「設計監理時に建築主に対して説明責任を果たすこと」、「適切な報酬をとること」を建築士法や経済の話と絡めて行われた。

これらは起業する者だけではなく、資本主義社会の中で報酬を貰う労働者にとっても当たり前のことだと思っていた。しかし、話を聞いていると日本の建築界では当たり前ではないのが実情のようだ。特に下記の二点において非常に未成熟な建築士の慣習に、同じ建築士として落胆した。

まずは、今でも「馴れ合い」や「信用」だけで設計業務を始めてしまう建築士が多いと言う点。
僕ら建築士は建築行為に対して責任と義務がある。つまり、大きい額の「建物」を適切に設計・監理しなければならないし、問題が起これば責任を問われる立場にある。 だからこそ、業務遂行において権限と責任を明確化することは重要であるし、それに対する報酬を示した契約書なしに業務をはじめてしまう建築士の気持ちがまったく分からない。 これは値段や内容も知らせずに、相手に商品を売りつけるようなものだ。また、自分の適切な報酬を設定出来ない建築士にいたっては、自分自身だけでなく、僕も含めた全建築士の能力を過小評価する行為で、非常に悲しいと思う。 資本主義の中で自分の技術や思想に値段を付けられない建築士が何千万も何億もする設計に携わる資格があるのかと、その資質を疑ってしまう。 業務終了時に報酬が支払われず、裁判所で争うにいたる事案がかなりあるようだ。 

もう一つ気にかかったのがリスクの不足説明。
建築物が一つ建つには、建築主、意匠建築士、構造設計者、設備設計者、各施工者という複数の人々の参加が必要だ。 それは2次元の図面を媒体に全員がこの情報を共有し、3次元の構築物を作っていく。 関わる人々それぞれが把握している情報量も違うし、3次元の完成像を創造できる能力も異なる。そんな状況の中では、色々なものを決定していく際に、異なる解釈が生まれる。特に、専門家ではない施主との相互理解不足は最大の問題だ。 建築に関する訴訟の大半はこれが原因だそうだ。 特に、リスクの説明不足は施主の「こんなはずじゃなかった」という思いを生むが、建築士は「施主の言った通りにしただけ」という理解になるらしい。 決定した設計事項に対するリスクと効果を説明しないと計画内容が施主に伝わらないし、さらには「設計行為」自体をブラックボックス化し、社会から切りはなしてしまうことにもなる。 一般客を取り込むために、銀行もいやいやながら金融商品のリスクを説明している。 建築士も「設計行為」を社会に開くために、その美しき効果だけではなく、リスクも合わせて説明するべきだ。

二点は一般的に当たり前のことだが、日本の建築界では徹底されていない。 このような基礎的内容が既に経営を始めている「新規事務所開設者」に対して行われたことが非常に悲しいし、この悪状況を非常に象徴的に表していると思う。

経済行為の中で建築士は自信喪失し、それが日本人の建築設計に対する報酬の軽視を後押ししている部分もかなりある。 まずは、建設の専門/非専門家に関わらず、質の高い建物や都市が出来る土壌を日本の経済活動の中で作っていく必要があると思う。

フランスから日本に帰る飛行機で、旅行客の団体をよく見かけた。
決まって言う。
「パリは良かったわ。何で日本はこうならないのかしらね。帰りたくないわー。」
一人の建築士は心の中で問う。
「あなたはパリの市民以上に何かを失っても街造りに参加する覚悟はありますか?」

Architecture Space / 建築, Urbanism_City / 都市 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 3 8, 2008 23:16 | TrackBack (0)

黒田アキ×劇場

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黒田アキさんが手掛けた某劇場のオープンハウスへ。
床面には2m角程度の白黒タイルが。
天井面は一部が捲り上がり、その周りにオブジェ群が浮遊する。
壁面は真っ赤に塗られ、そこにはアキさん御馴染みのシルエットが描き込まれていた。
外部空間には「花子と太郎」や「ジェームス」と名付けられた彫刻が置かれていた。

「芸術と建築の関係」については色々語られているが、この作品では両者が融合していると言うよりは、
建築と言うキャンパスの上に、芸術家が思うがままに絵を描いたという印象。
両者が融合しているという印象は受けなかった。
と言うのは、もしアキさんの絵や彫刻がそこから消去されたとしても
他のアーティストの作品を置いてやれば雰囲気は変わるが、
空間が持つ骨格というか基礎みたいなものは変わらないような気がした。

建築の機能が美術館やギャラリーなどと無縁な場合、「芸術と建築」の両者はどのような関係を持つべきなのだろうか?
芸術が建築の装飾に成り下がるのは格好が悪いし、建築が芸術の額縁に成り下がるのも面白くない。
芸術家と建築家が立場を入れ替えて、建築と芸術を作ってもそれは関係を持ってるとはいえない。
論客たちが色々語っているのを見るとそんな簡単なことではないのだろうと言うのも良くわかる。
しかし、実際には単純な方法で「芸術と建築が融合している」と見せかけているるものが大半である気がしてしょうがない。

何はともあれ、こんなことに思いをめぐらせるのは久しぶりだった。
答えは出ないのでゆっくり考えます。
今回訪問した建物は、近日中にメディアで解禁されます。

会場で友人のアキマ・リエさんに会う。
相も変わらず変装をしていた。 パーティーの時に彼女に会うのは実に楽しい。

| Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 3 3, 2008 1:58 | TrackBack (0)