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Noelに考える

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12月に入り、町中がNoel(クリスマス)一色です。
多くの通りが、様々なものたちを模ったイルミネーションによって飾られています。
HOTEL DE VILLE(パリ市庁舎)前の広場では恒例のアイススケートも始まりました。
頭がキンキンする寒ささえなければもう少し楽しめそうなんだが。

日本で言うお正月なので、家族総出で準備に取り掛かっている。
日本での歪められたクリスマスのイメージが
スカスカなものに感じられてしょうがない。

色々な「もの・こと」を輸入し、修正し展開してきた日本の文化。
その上に根ざしているものは面白いものが多いし
僕の「建築」という分野だってそれによって成立している。
しかし、日本化された「くりすます」や「ばれんたいん」は
そういう部分とは全く切り離された「広告的価値観、商業的価値観」によって
完全に捏造されたイベントとなっている。
そんなことで全国民(特に若い年代)が動かされてしまうのは寂しいかな。

そのようなツルツルした状態は、多くのものことについていえるかもしれない。

特に 日本は、色々な分野が最新で常に新鮮なものを欲している。
しかし、その「新鮮なもの」への検索範囲は海外であることが多い。
「パリ発」「ニューヨーク発」 という言葉に日本人が弱いこともこれを証明してる。
海外から見たら、東京は立派な国際都市であるにもかかわらず、「新しさ」を外に求め、
街には常に、更新された、最先端の、研ぎ澄まされたものが置かれる。
その「更新」は物凄い速さで円滑に進むけど、本質的には何も積み重ていないし、
かつ、「前のものは何も残っていない」というのが日本、特に東京と言う街である気がする。
パリはその点、圧倒的に更新が遅いけど、遅い分何かが残って
その上に確実になにかが積み重ねれれている感じがする。

雑誌に付いてもこれは言える。
日本の特に建築雑誌は、2,3年おきに文末やタイトルだけを変えるだけど
同じ特集を何度も何度も繰りかえす。
松田さんが言っていたが
ヨーロッパ、特にフランスでは、同じような特集を手を変え、品を変え
再生産し続けることはないらしい。

学術的な分野にも同じことが言えるようだ。
日本では論文を書くとき、文献が点在していて研究が積み重なっていくような準備がなされていない。
当然、分類整理されているけど、上手いこと発掘できない。
がゆえに、同じような研究がいたるところで繰り返されていたりする。
気になっていたこの話を、文学の本田さんにしたら
こちらはしっかりとした検索システムが確立されていて、
しっかり研究を積み上げていくシステムが確立されているらしい。
だから、研究はしっかり積み重ねられたりしている。
でも、日本の論文が求めるような「鮮やかさ」をもったものは多いわけでもなく
逆に、 当然の結論しか導き出さないつまらない論文も多いいらしい。

「歴史や根源の不在 」に対する不安から、逆に根源的な部分から思考し直したり、
油断なく積み上げたりして、世界トップレベルのものを作ったりもしてる。
また、突拍子もないところから発想する自由度もある。
良くも悪くも、日本とはそんな国です。

なんてことを言ってるけど、それなりに「くりすます」を楽しんでいた僕も
3,4年前には いたわけです。

Dialy / 日常, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 12 12, 2005 9:25 | Comments (2) | TrackBack (1)

頭の体操

土曜日
久しぶりに連絡を頂いて松田達さんとスイスで働く木村浩之さん
3人でラオス料理のお店へ。
お互いの自己紹介や近況報告をさせていただき、その後場所を替え一杯。
異国での建築教育制度、思考方法、設計プロセスからコルビジェに至るまで
海外経験者としての面白い考え方を伺うことが出来た。

久しぶりに「建築」を肴に飲んだという感じです。
意識して考えながら喋るといい頭の体操になって
脳の眠っていたどこかが活性化された感じ。
僕もそれに乗せられるように幾つかお話する。

僕が最近気になっていること、いや驚いたのは
日本人と仏蘭西(欧州ともいえる)人の単位感覚。
僕が前に勤務していた仏蘭西人建築家の設計事務所ではエスキスを「メートル」単位で考え始めた。
そして詳細設計等の時点でもCAD上の基本単位は変わらず「メートル」に設定されていた。
つまり、それ以下の長さは基本単位を「分割したもの」である。
今は仏蘭西にある日本人の事務所で働いているんだけど単位は全て「ミリ」で扱われる。

つまり、同じ50センチを思考するとき、
・基本単位を分割した「0.5メートル」と
・ 基本単位を500倍した「500ミリ」
と言う違いが出る。
これはスケール感覚や視覚的/触覚的建築の作り方にかなり作用している。
全ての部分に焦点が当たっている日本建築の緻密さは
こんなところから来ているのかもしれない。

比較の対象として「全体性が持つ魅力」を好む仏蘭西建築を取り上げると納得行くけど
欧州諸国でも詳細部分の納まりが美しいスイスも同じ「メートル」志向らしい。
「全ての部分に焦点が当たる」ことと「収まりが美しい」ことが
空間の質においては必ずしも同じことではないということかな。

あと、聞いていて印象に残っているのは木村さんの欧州人の「面の扱い方」。
欧州人は、空間に出てくる「細々した物」(電気、排気口、吐き出し口、消火設備など)を
面の要素として自覚的に捉え、面の中に整理整頓して置いているという。
確かに日本人の作品で「これほどこだわっているのに、ここにこれが出てくるのか?」
と言う感じがする。
つまり、日本人は空間を抽象的な存在として捉えていて、「空間」をデザインした後に
実際の使い方や法規的に必要なものが別の次元で「空間」に出てくる感じ。
そんなときはちぐはぐな空間になる。

僕が上記で「細々した物」と書いていること自体、そんな日本人的意識を表している。
完全には一般化できないけど非常に頷けるお話だった。

Architecture Space / 建築, Dialy / 日常, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 12 5, 2005 9:25 | TrackBack (0)