『光の教会』は本当に名建築ですね。ただし、増築されたことにより構成云々というのは、プログラムが増したことに問題があるのではなく、単純に増築が建築としてよくないということに尽きると思う。その意味では、おそらく依然として『光の教会』が変わらなく評価ができるだろうと思えるのは、結局これがインテリアの建築だからかもしれない。そういう意味では、確かにモダニズム建築に冗長性がない(ゆるくない)というのはそのとおりだね。キーワードはredundancyということかな?
ちなみに村野藤吾はぼくの大嫌いな建築家だけれども、『宝塚カトリック教会』はいいよね。実は先日ロンシャンに行ったとき、宝塚の方がいいじゃん、なんてちょっと思ってしまった。
ナイスなアシストされてしまった。サッカーで言えば、アシストまでの流れでほぼ点をとれる形になっていたという感じ。やーられた。
インテリアという解釈は、僕には腑に落ちませんが、たとえば、ピーター マークリの彫刻の家に近いところなのでしょうか?光の教会は、既視感のある住宅街を彷徨うと、ふっとたどり着き、周辺を忘れさせてくれる、洗礼感。彫刻の家は、スイスの山渓に立つ街と周辺のランドスケープに酔いしれて、ぬっと入り込んでしまう無造作感。要は建築の外の形をよく思い出せない。
ロンシャンのより宝塚の方がなんて、繋げようと思ったことない。年輪差を感じる(笑)。言われてみれば。あぁともおもったけど。宝塚は、僕の行ったタイミングが悪く、人に使われてる感じがイメージできなかった。あと、デジカメも壊れた。そんなもんだ。
『彫刻の家』まで出されちゃうとなんだけど、建築のオブジェとしての見え方を評価して『光の教会』を考えると、確かに増築はそれをブチ壊している。でも、そういうことでもないのか、simonの言ってることは。周辺との関係の持たせ方ということかな?
Posted by: shinya at January 7, 2005 10:43 AM周辺との関係となると、場所が違うので、違う回答が生まれるものだと思う。オブジェ的なものの評価というのも違うかなぁ。インテリアの建築というのがなんか新しい評価だなぁと思って。内へ向かいやすい傾向にあった、当時の建築家の思考性から言って、内の存在が堅く守られていれば。いいんだ。という、感覚なのでしょうか。そういう視点なら、確かに比較できない二者の建築だ。
Posted by: simon at January 11, 2005 12:22 AM