舞城最新作?

舞城王太郎の最新刊『みんな元気。』の刊行を記念して,山手線沿線の書店店頭における意味不明なキャンペーンが行われている.「バラバラPOP漫画 on 山手線」というもの.舞城の最新作ということになる.地図上の右の方は見に行けそうだが,左はちょっと遠い.近所に用事があって行った方,舞城作のPOPを写真に撮って送ってください.ご協力お願いします.

| Posted by satohshinya at November 16, 2004 6:40 | Comments (6) | TrackBack (0)

繊細と思っていたが実はテキトーだった

西島大介の『凹村戦争』(早川書房)を読んだ.《二人のウエルズ氏に.》と献辞にあるように,『宇宙戦争』を書いたH.G.ウエルズと,それを元にラジオドラマをつくったオーソン・ウエルズ(だから,凹村→おうそん),その他にもジョン・カーペンター,『プリズナーNo.6』,『2001年宇宙の旅』だとか,ネタが散りばめられている.まあ,それだけが本題ではなく,東浩紀の帯文に端的に示されているように,「きみとぼく」に「メタとネタと萌え」というもの.しかし,マンガ自体は期待していたほどではなかった.
なぜ期待していたかというと,西島のイラストレーターとしての仕事に興味を持っていたから.『定本物語消費論』大塚英志の文庫版の表紙と中表紙や,『網状言論F改』東浩紀編の表紙をぜひ見てほしい.特に繊細な淡い色使いに注目したい.その意味では,『凹村戦争』は白黒だから…….しかし,期待していたポイントが違っただけで,全編に流れる(西島のホームページにもそういった雰囲気があるけど)「テキトー」感は気持ちよいです.

| Posted by satohshinya at April 29, 2004 8:13 | TrackBack (0)

バランスのよい複雑さ

イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(脇功訳,筑摩書房)を読んだ.最近,河出文庫で『柔かい月』『見えない都市』『宿命の交わる城』が続けて刊行されたため,これを機にまとめて読んでいる.
カルヴィーノの個人的な思い出としては,1989年にニューヨークへ行ったとき,クーパーユニオンだかコロンビア大だかの近所の建築系書店で,『見えない都市』が平積みになっていたことを思い出す.『見えない都市』が書かれたのは1976年であるが,80年代最後のNYの建築界は,ポストモダニズムからデコンストラクティビズムへの移行時期で,そんな時代の雰囲気にこの小説が合っていたのかもしれない.(ちなみに,ここでのポストモダンは狭義の意味で,古今東西の引用によるコラージュ的デザインを指す.デコンも狭義の意味で,ロシア構成主義的デザインを指す.もちろん,デコンは広義のポストモダンに含まれる.)マルコ・ポーロによる都市の描写を集めただけの物語は,建築関係の人たちには表面的に理解しやすいものだったのだろう.しかし,カルヴィーノの作品が,小説全体に及ぶ多様な解釈を内包することを目論んでいることを思うと,ただの都市論として『見えない都市』が読まれることは望ましくない.
その点,『冬の夜』は,バランスのよい複雑な構成を持つ小説である.『柔かい月』は,デッサンのような短編小説集.『見えない都市』は,都市論としての表情が強すぎる.『宿命』は,あまりにも実験的すぎる.とするならば,カルヴィーノを読むには,『冬の夜』がもっともおすすめである.

| Posted by satohshinya at April 21, 2004 23:35 | TrackBack (0)

フルカラーにリミックス

『総天然色AKIRA(全6巻)』大友克洋(講談社)が完結した.これは海外で通常販売されているヴァージョンの『AKIRA』で,カラーリストのスティーブ・オリフによって,全ページがフルカラー化されているもの.だからといって,これが『AKIRA』の完全版というわけではない.縦書きの日本語がページを右から開くのに対し,横書きの欧米では左から開くため,全てのページが裏返されることになる.つまり,右利きだった金田が,国際版では左手にレーザー銃を持つことになる(鉄雄が失う腕は左手だし,アキラのナンバーは右手にある).絵の中の効果音もアルファベットに描き改められ,オマケにセリフは,大友の日本語を英語に訳したものを,更に翻訳家の黒丸尚が日本語に訳すという重訳.オリジナル版からは遠く離れたリミックス版という趣.もし『AKIRA』を読んでいない人がいたら,間違っても総天然色版を読まずに,白黒版を読んでほしい.
しかし,大友は2,158ページに及んだ『AKIRA』を描いた後,10年間で21ページ(3作品)しか描いていない.ようやく今年,『スチームボーイ』が公開されるが,どうなんだろう?

更に大友克洋に興味のある方は,こちらもご覧ください.

| Posted by satohshinya at April 20, 2004 6:59 | TrackBack (0)

長さと短さのバランス

清涼院流水の『彩紋家事件』(講談社)を読んだ.清涼院を読んだのは,長大な『カーニバル(文庫版)』に続き2作目.『カーニバル』,そして未読だが『コズミック』『ジョーカー』よりも遡った1970年代後半の物語である.
その時代設定のためか,執筆している現在と70年代後半とのギャップをわざわざ強調し過ぎることと,奇術が物語の中心に据えられているのだが,その描写があまりにも詳細かつ冗長であることが気になる.前者は,『カーニバル』では現在と未来のギャップによる物語の飛躍を,今回は過去と現在のギャップに置き換える試みを行っているため.後者は,『カーニバル』では奇跡的な出来事を現象のみを詳細に描写することでトリックの説明を回避していたものを,今回は奇跡的な出来事を詳細に描写するとともに,現実に存在可能なトリック(ただし,超人的な肉体訓練を要する)を用いた説明もまた詳細に描く試みを行っているため.という理由はわかるが,ともすると中盤の奇術の記述は退屈する.
以下はネタバレになるが,それでも全てを読み通し,構成上の長さと短さのバランス故の詳細な描写かと思うと,納得がいかないこともない.

| Posted by satohshinya at April 12, 2004 7:56 | TrackBack (0)

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