快晴@ronchamp

ロンシャンに来た.ここが快晴の時に来るのは運がよいらしい.ロンシャンは,ロンシャン以上でもなく,ロンシャン以下でもなかった.今はストラスブールに向かっています.

日記 | Posted by shinya_mobile at September 9, 2004 22:43


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Comments

>ロンシャンは,ロンシャン以上でもなく,ロンシャン以下でもなかった

この表現、面白いですね。
見る(光を受ける)前からあまりに知っていすぎたってことでしょうか?(^^;)
以下でもないってのが気になります。

Posted by m-louis at September 10, 2004 5:35 AM

帰国後コメント6.
基本的には,知りすぎていたということです.名建築とは思いますが,以前からコルビュジエの中では好きなものではなく,本物を見た結果もその感想には変わりなく,それ故に以上でも以下でもないという意味でして…….

Posted by shinya at September 15, 2004 10:52 PM

僕から言うにしては変な表現ですが、お帰りなさい。

慎也さんの2日後に、僕もTGVでロンシャンへ行きました。

自分のHPにも書いたのですが、なぜか僕は予想以上に大感動しました。いや、感心しました。

片目のコルビジェが作り続けてきた、ピクチャレスクな建築とは異なり
身体と連動した建築的操作が盛りだくさんでした。
認知科学が現れていない時代にこのような操作が可能だったのは、
学問とは異なる方法で
彼の身体が常に分析と把握を行っていたということでしょうか。

異なる立ち位置で、異なる様相を見せるこの建築は
一つのイメージとして統合されることがなく
ある種「夢・幻想的」な存在として把握される気がしました。

ちょっとほめ過ぎかもしれませんが。

たぶん、今まで「自分の作品を言葉で批評すること」をモットーにしてきた彼の(彼にしては)禁欲的な態度が
最後の建築で爆発し、彼の本性が告白されたような
気がします。

慎也さんの「以」は、どのあたりか気になります。

飲んだときにする話題かも知れませんが、
とりあえずお帰りなさいということで。

Posted by atelier+.sugawara_daisuke at September 16, 2004 6:13 AM

とりあえずcommentで続けます.9月1日の「朝日新聞」に,松葉一清さんが伊東豊雄さんのインタビューを記事にしている.
《伊東さんは「ミース・ファン・デル・ローエの厳格さではなく,ル・コルビュジエの自由な表現に魅力を感じる」と現在の心境を語る.モダニズムのふたりの巨匠は,ミースが終生プロポーションの絶対美を追究したのに対し,ル・コルビュジエの晩年には自由な造形の躍るロンシャン教会堂が登場した.》
僕が気になるのは,つまりはこういうことで,自由な表現と言われてしまうと本当に困る.もう少し整理ができて,時間があったら続きを書くかもしれません.飲んで話す方が早そうだけど…….
ちなみにこの記事《松本の窓の集合は,そこに通じている.》と続きます.うーん,そこへ直結されるとどうも話が簡単過ぎて…….

Posted by shinya at September 17, 2004 11:39 PM