日本の正確な表現

ヴッパタール舞踊団の新作『天地 TENCHI』彩の国さいたま芸術劇場)を見た.
ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団の公演は,1996年の『船と共に』以来,来日の度に見ている.最も好きなダンスカンパニーと言っても過言ではない.なぜ好きなのか? それは,ピナの舞台にはあらゆるものが含まれているからである.もちろん,洗練された肉体表現としてのダンスがある.言葉がある.英語もあるし,日本語もある.(ダンサーたち自らが,片言の日本語でセリフを話す!)音楽がある.歌もある.巨大な舞台装置がつくられる.(2002年の『緑の大地』日本公演では,装置の構造計算を岡田章さんがやっていた(笑).)水も砂も土も火も草も花も使われる.演劇のようでもある.コントのようですらある.そして,なんと言ってもユーモアがある.とにかく,コンテンポラリーダンスというジャンルだけで呼ぶべきではない何かがある.むしろ,そのダンスの能力を持っているが故に,後は何をやってもよいという自由さがある.
今回の『天地』は,日本をテーマに制作された最新作である.昨年日本で上演された『過去と現在と未来の子どもたちのために』は,2002年に制作された,その時点での最新作だった.それは,それまでの作品と比べると,圧倒的にソロの多い作品だった.個人的には,ヴッパタールの魅力はアンサンブルにあると思っていたので,ソロはやや退屈で,わずかなアンサンブルが印象的だった.そして,今回の『天地』では,全くといってよいほどアンサンブルがなかった.ほとんどが小さなエピソードをパッチワークしたような,徹底的に断片的な作品であった.それは,『過去と……』のように,最近の作品の傾向であるのかもしれないが,もしかすると,日本をテーマにした結果であるかもしれない.かつてのピナの作品には,もう少し構築的なところがあった.例えば,多くの作品が二部構成となっているのだが,1部に登場した動きやシチュエーションが,形を変えて2部に反復されて現れることで,作品が重層化していく.しかし,今回は反復すら行わない.ひたすら断片化されたコントが続く.しかも,そのことが決定的なのは,クライマックス(と呼んでよいのかすらわからない)である.ある意味ではアンサンブルなのだが,このようなものだった.1人が舞台中央で短く激しく踊ると,次の1人が中央に走り込んでくる.そうすると,先に踊っていた1人は舞台袖へ走り去っていく.そして,次に現れた1人がまた舞台中央で短く激しく踊り,更に次の1人と入れ替わる.それが繰り返されて,最後まで続き,閉幕.つまり,2人以上が同時に舞台上に現れることはなく,それどころか,それが激しいスピードを持って繰り返されるために,通常のアンサンブルを強烈に拒否しているようにすら見える.
片言の日本語で繰り返される,ゲイシャ,フジサン,サムライなどは,さすがに辟易するところでもある.しかし,『ロスト・イン・トランスレーション』(見ていないが)同様に,海外の持つ日本のイメージとしては,正直な表現であるのだろう.しかし,この超スピードの慌ただしい孤独なアンサンブルもまた,日本を表現したものだとするならば,現在の状況を正確に現すことにピナは成功しているように思える.

舞台 | Posted by satohshinya at July 15, 2004 8:51


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Excerpt: 『ネフェス』Nefes(呼気) ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団( Tanztheater Wuppertal)による,2003年にイスタンブールで制作された作品....

Tracked: February 24, 2005 11:34 PM