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齋藤桂太レクチャー@オウケンカフェ

2014年12月17日(水)、2014年度第7回ゼミナール@オウケンカフェとして、アーティストの齋藤桂太によるレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

福田航大
 今回のオウケンカフェに出演していた齋藤さんは、「渋家」という企画(イベント?)を行っている方であった。シェアハウスのように家を大人数で借り、それを24時間365日解放して多種多様の人を招き、様々な企画を行っており、オウケンカフェではその経歴と主なイベントを聞かせていただいた。
 この企画がアートであるという話があったが、アサダワタルさんの住み開きと似ている気がした。住み開きは家の一部を解放したコミュニティースペースであったが、渋家は借りた家全部がコミュニティースペースとして解放されているという違いがある。アサダワタルさんの住み開きは個人によって違いが分かれ、それぞれの個性が作品として成り立っている気がしたが、渋家は1室を借りるだけで作品として成り立っている。これは「作品と言っちゃえば良い」といったような感じで、別に家に大きな装飾をするわけでもなく(布を家に被せるということをやっていましたが)、ただ人を集めて何かをやるスペースとして使われている。はたしてこれがアートと呼べるものなのだろうか。
 アートというのは、なにかしら感性を刺激し、問題を主張するような要素が含まれ、そこに美が潜むといったようなものが形に表現されているようなものを指すと思うが、これは企画であり、形になるわけではなく、借りた家という環境を公共化しただけである。環境をアートと呼ぶなら、その家を建てた設計者がその作品をもつ権利があると考える。
 千利休が、生け花で散った花びらを、水が貯まった植木に投げ、作品として形にした。こういう一瞬の美を芸術というが、渋家が一瞬を切り取ったアートというなら、人の集まりをアートと呼んでいるのだろうか。渋谷のような人が多く動く場所を見ると、混沌としたぐちゃぐちゃしたものを私は想像してしまうのだが、そういった場所からある共通点を持って渋家に集まった人達は、混沌から抜けたひとつのアートなのだろう。
 このことから思うに、人が集まるという日常的な行為と習性はひとつの美であると言える。人が集まり、飲み交わしたり遊んだり、時に力を合わせて物をつくりだし、それを提供したり。私たちが普段見ている人の集団には、それぞれ個性ある日常があり、それは人が入れ替わることで色が変わっていく。人というのは同じ種族でありながら、それぞれの身体的、精神的違いが個性を生み、何かの共通点から集まることでグループが生まれる。渋谷のような光景は、それぞれが個性を主張した上で生まれたのであろう。しかし、渋谷に「店を構えている」「住んでいる」「遊びに来ている」という共通点がグループをつくり、それが大きくなった結果があの光景なら、混沌と言えないのであろう。というよりひとつのアートであると言える。
 私が建築を考える際に重視するのは機能で、美を追求するのに手が回らないことが多いのだが、「とりあえずアートと言ってみる」ことから生まれるアート性があるのではないか。それがアートでなくても、そこに何か生まれる光景から生まれたりする。その日常的光景をアートとして頭に入れつつ建築を考えていくことが大事である。

| Posted by satohshinya at January 1, 2015 22:18 | TrackBack (0)