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アートプロジェクトについて 宍戸遊美レクチャー(その1)

2008年12月12日(金)、2008年度第4回ゼミナールとして、アーティストの宍戸遊美により、「アートプロジェクトについて」と題したレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

アーティスト宍戸遊美さんのレクチャーについて
杉田達紀
卒業制作
 舞台は沖縄であった。なぜ沖縄に決めたかという理由は一つ目に基地問題、二つ目に『自分の育った場所と違う所で何が出来るか』というものだった。基地問題はまさに沖縄の問題であり、そのこととアートというものの関わりを考えるのは、難しいことだと思う。そして、沖縄でも過疎化している商店街で昔は米兵のための繁華街であり手作りの看板などが並ぶ所を選んだというのは、町おこしの意味もあり、自分の成果が表に現れやすくていい場所だったと思う。
 店の中に作品を飾るのではなく、通路に作品を置くというものだった。多分空き店舗の中に作品をおくとあまり奥まで入って行きにくいが通路ということでそこを通る人が気軽に作品にふれることができコミュニケーションも広がるのではないか。子供たちとの交流はこの卒業制作が成功した一番の要素であったと思う。
 その場の全ての環境を受け入れて作品を製作して行くということは、場所が変わると作品も変わってくるということであり、無限にアートがあるということを表している。そしてどんどんと新しいプランが生まれてくるのである。時がたつごとに子供達が増えプロジェクトが発展して行く。
 この商店街が成り立っている理由として小学校があるからと考え、宍戸さんは5年生のワークショップを受け持つことになる。ワークショップが出来たのもコミュニケーションの力でたまたまこのクラスの担任の先生がアートについて興味があったからである。いろいろな人との交流は何よりも大事なことだと思う。どんなに力量があってもコミュニケーション能力がなかったらその力を発揮できないと思う、今就職活動をしている中でも同じことが言えるであろう。
 そのワークショップで感じたことは記号化された教科書で制限が多すぎるというものだった。確かに今まで特に違和感のなく教科書を使っているが、制限が多すぎるという考えは賛成できるもので、もっと自由な発想が重要であろう。
 バショカラプロジェクトでは、
場所探し(自分だけの場所)→つくる→言葉を書いてみる→仕上げる
というながれのものである。
 本当にみんな自由な感覚でものをつくっていて『自由』という言葉がぴったしと当てはまる授業にみえ、子供達の感性を高めるものに思えた。自分の小学校時代にはこのような授業は無かったが、子供達が普段どのようなことを考えているのかなどが浮き彫りになるとてもいい授業であると思う。このように『自由』な授業が今後の子供達には必要かもしれない。

アートプロジェクトの話を聞いて
光永浩明
 アートプロジェクトが具体的にどんなことをやっているのかという興味があったので、今回のゼミに参加させていただきました。話の中で、僕は宍戸遊美先生の体験談が一番関心をもちました。まず、自分が社会に出たらどうしたいのかを考え始め、経済の先生の「町おこし」がきっかけで沖縄でアートプロジェクトをやろうとした点です。僕はそれを大学受験の時に「自分は大学に入って何がしたいのだろう」と考えていた頃を思い出しました。その時は建物の構造に興味があってそのことについて詳しく知りたいと思ったので、短大の建設学科に入学しましたがそれらを重ね合わしてみたら、やはり「自分が社会に出て何がやりたいのか」というように自分を見つめ直す時期があるんだなと思いました。受験の時に、外見の雰囲気で見た限りで実際は分かりませんが、東大のような難関大学に合格する目標があっても、その後自分が何をしたいのかまだ決めていなかったり、考えたこともないという人が割と多くいたので、自分はどのようにして社会に貢献していくかが決まった時に人は少し成長していくものなんだなと思いました。
 学生時代にアートプロジェクトを自分の地元ではなく、沖縄を選んだのはすごいなと思いました。きっかけで行こうと思ってもそう簡単に行ける所じゃないし、しかも往復で5回で宿泊がタダなのだから僕には到底マネできないなと思いました。場所が1960年代のベトナム戦争時に大繁盛した中部の古座十字路の商店街にしたということで、写真を見た限りだと閉店していることもあってか暗くて不気味な雰囲気だなという印象がありました。そのマイナス要因になる雰囲気をアートによってポジティブに生まれ変わり、人が全くいなくても明るい感じで全然違うなと思いました。ちょっと意外だったのが作業している時やそうでない時でも町の人に声をかけられたら話すということです。作業をしている時はその作品に集中したいという勝手なイメージがあったので、話かけられたら話すというのは僕の中では意外でした。同時に、こうして町の人とコミュニケーションをとるんだなと思いました。
 続いて沖縄のある小学校で、1.場所探し、2.つくる、3.言葉に書いてみる、4.仕上げで構成されている「バショプロジェクト」というビデオを見せてもらって、小学生ということもあり、作品が十人十色でその子の性格がよくでていて面白かったです。最後にゼロタテの作品を見せてもらったんですが、残念ながら途中で寝てしまいました。しかし安らぎがあった感じがしました。
 こうしてアートプロジェクトの話をしてくれて、これらは建築関係と共通している所があると思います。宍戸先生も同じように思ったかも知れませんが、僕も建築を勉強する前は単に建物だけを造っていて、住民に関わるのも建物を建てるための説明会程度のものだと思ってました。しかし、住民とのコミュニケーションを取ることによって、新しい建物や未来を作っていくんだなということが分かり、アートプロジェクトも地元のコミュニケーションがなければいい作品ができないんだなと思いました。
 建築という分野にとらわれず、アートプロジェクトという別の視点から見つめるのも大事なことなんだなと思いました。

アーティスト 宍戸遊美さんのレクチャーを聞いて
小石直諒
 12月12日、アーティストの宍戸遊美さんのお話を聞かせていただきました。内容としては「アートプロジェクトについて」ということでした。
 一番初めに関わった卒業制作のアートプロジェクトでは、師事していた先生の影響もあり沖縄で町おこしのため、「CUVAプロジェクト」というものを企画したそうです。このプロジェクトでは当初、空き店舗などを利用させてもらう予定だったそうですが、やはり見ず知らずの人に貸すというのは商店街の人達にとっては難しかったのだと思います。そのため、商店街の通りをメインに作品を作ったそうです。製作過程では、学生や商店街の人達とコミュニケーションをとるために、
1.地元の人に話しかけられたら、作業中でもそうでなくても、必ず話す。
2.毎朝起きたら、商店街を掃除する。
ということを行ったそうです。1に関しては、他所からきた人が地元の人達とコミュニケーションをとるためには重要な要素になるのではないかと思います。2に関しては、掃除をすることで商店街という場所を使わせてもらっているので、掃除という行動も地元の人達から好感を得るためには、いいものだと思います。このような行動をしていたこともあり、2回目以降は空き店舗や住居を利用させてくれるようになったそうです。また、打ち上げの際には作品に対して様々な意見を出してくれるようになったということで、ごく小さな地域での事かもしれませんが、地域と密着して行うアートプロジェクトになっていたのではないかと思いました。このことは、TAPのときと同様に、住民たちがいる場所を提供してもらうときには、非常に重要な要素になると思います。
 このプロジェクトの一端で、小学校で授業をする機会があったということでしたが、このとき思ったことは教科書に書いてあるものは抽象絵画の技法についてばかりでつまらないということでした。そこで“にじみ"と“フィンガーペインティング"技法を使って、『自分の気持ち』をテーマに絵の具との対話を促すことをし、少しでも楽しいと思ってもらうようにしたそうです。
 「バショカラプロジェクト」では、小学生に学校のなかで好きな場所を紹介してもらい、それについて作品を作ってもらうというものでしたが、小学生たちは楽しそうに取り組んでいました。「CUVAプロジェクト」でも「バショカラプロジェクト」でも、小学生を対象に行っていますが、最近では図工(美術)があまり好きでない生徒も少なからずいるからということもあると思います。実際にこれらに関わった小学生たちは楽しそうに取り組んでいたので、今後はこのような授業が必要になってくるのではないかと思いました。
 最後に、今回のレクチャーを聞いて、建築にしてもアートプロジェクトにしても、『コミュニケーションをとる』ということは、非常に大切なことなのだなということを実感しました。

アートプロジェクトについて 宍戸遊美氏レクチャー
鈴木直樹
 今回レクチャーをしてくれた宍戸遊美さんは、最初にアートプロジェクトに参加場所は沖縄という、東京生まれの宍戸さんには異郷の地だったのではないかと思いました。参加理由としては予備校の先生が沖縄サミットに作品を出展していたということだったのですが、宍戸さんも言っていましたが基地問題、気候・方言などの環境問題があったにも係わらず沖縄でやったのはすごいと思いました。
 そこでアートプロジェクトをしていくと、子供たちとの「コミュニケーション」や雨漏りを利用した「マイナス要因をポジティブに」変化させたりと、自分たちが予想もしてなかったようなことが起きても、そういった問題さえも楽しく取り込んでいくというところにもアートプロジェクトの魅力というのがあるのかなと思いました。
 ホームステイ先の小学校でワークショップをした時に、一番最初に子供たちに自分の気に入っている場所を案内させるという「場所さがし」をしてみるとそれぞれが思い思いに違う場所を選んだのでとても驚いた。さらに「つくる」「ことばに書いてみる」「しあげ」といった段階を経て子供たちの作品が完成していった。やはり子供というのはすごく自分の感覚や感性が豊かだと思ったし、しかし作ったものを言葉にしてみるとなると少し難しそうに見えました。最後に子供たちに作品を作ってみてどうだったかを聞いてみて「気持ち良かった」という言葉に宍戸さんはとてもうれしかったと言っていて、ワークショップをやった側としてこれ以上の褒め言葉はないと思いました。
 その後コマンドNでやった氷見市を映像作品とするプロジェクトである“ヒミング”では終わった後でもヒミングアートセンターと呼ばれるものが出来、アートプロジェクトをやったことの成果が形となって残ったものではないかと思いました。
 今現在、宍戸さんは絵の方は描かずに外へ出てコミュニケーションをとって、人に会いに行くことが大事だと言っていましたが、それはきっと建築についても言えることではないかと思いました。モノづくりをする人というのは中にこもってばかりでは何も生まれないと思うし、外に出て見えなかったものに触れていくことにより何かが広がっていくに違いないと思いました。また、宍戸さんが予備校時代とは違うモチベーションを持って描いた絵を見てみたいと思いました。

美術=アートプロジェクト・宍戸遊美さんの講義を聞いて
高木彩名
 アートプロジェクトについてのお話を聞いて、直島や犬島のように、島という環境の中で島全体を巡ってアート作品に触れるものや、十和田市現代美術館のように道路沿いにアートが置かれていたり、取手のように団地からたくさんの作品がつくられていたり、宍戸さんの小学校の映像作品や、秋葉原のTVの映像ジャックなど、様々な場所と規模で、さまざまなアート作品があることを知った。
 直島や犬島に行って、瀬戸内海の海で、綺麗な景色で、アートに触れるのも楽しかったが、宍戸さんの話を聞いて、映像ができていく様子など、映像作品をみてアートプロジェクトへの興味がより大きくなった。アートプロジェクトは場所にあった提案や人によって作品が変わっていき、地域の人とのコミュニケーションによって新しいものが生まれ、表現するものがたくさんあることが面白いと思った。知らない土地へ行き、知らない人から何かを学ぶのも、そこから何かを作り出すのも自分の世界を広げていくきっかけなのだと思った。
 宍戸さんのように絵から映像へ表現を変えて、小さなアクションで広い世界へ繋がるのではないかという話を聞いて、違うモチベーションをもって、考えを広げていくことでまた違う面白いものが見つかるのではないかという楽しさがあると思った。自分の知らない世界や自分がやりたいと思っていることに対して、積極的に行動することが大切なのだと感じた。
 映像をつくるためにたくさんの人と関わり、コミュニケーションを通じてアートをつくっていくことは絵とは違うものがあるのだと感じた。コミュニケーションを通じて、映像が完成していき、アート作品になるのをみて、小学校のプロジェクトも、富山でのプロジェクトもコミュニケーションがあったからできたものだと感じた。
 街づくりをするとき、アートでの街づくりも、建築での街づくりも人とのコミュニケーションを通じて立ち上げることができる。その環境によって、人によって、作品の表現が変わってくる。コミュニケーションはどの分野においても、ものをつくるためには大切なものだと感じた。

宍戸さんの講演を聴いて
布施美那
 コマンドNというグループで活動されている宍戸遊美さんのお話を伺いました。初めに、彼女の生い立ちの話から、学生時代のお話からでしたが、卒業制作のために訪れたという沖縄においての活動はとても魅力的なものでした。
 卒業制作のために沖縄のとある商店街でアートプロジェクトを行ったそうです。そこはかつては沖縄に駐在した米軍兵たちによって栄えていた繁華街だったそうですが、宍戸さんが訪れたときには少し寂しい感じだったようです。しかし、そのような場所だったからこそ、そこに活気を取り戻すことができるかもしれないプロジェクトをやることに、意欲を湧かせてくれたのかもしれません。宍戸さん自身も、初めに見に行ったとき、いい印象だったとおっしゃっていました。
 しかし、学生という立場ではまだ社会に出たこともないし、プロジェクトのために空き店舗を借りる交渉が、つまりは店の人とのコミュニケーションをとるということが難しかったようです。そのような場面でも、通路を使ってart展示を行うことによって、そこから徐々に店の人、街の人、子供たちとコミュニケーションをとること、触れ合う機会が増えていったそうです。当時、宍戸さんたちはあるルールを持っていたそうです。それは、“話しかけられたら話を聞く”ということと、“毎朝商店街を掃除しよう”全てを受け入れてやっていこうということでした。これは簡単なことのようでとても難しいことだと思います。私なら、自分の住む場所ではないところで、もし自分の地元でも、積極的に人と話すというのには躊躇してしまうかもしれません。もしかしたら、自分のバックグラウンドを何も知らない人たちの前でだからこそ、そのときの自分の感じたままに動けるということもあるのかもしれませんが。
 このようなコミュニケーションの甲斐あって、プロジェクトの2回目以降には、「これだったら場所を貸してあげようか」など声をかけてもらえるようになったといいます。そしてもっと生活の場に入り込むためにホームステイを行ったそうです。商店街が成り立つためには子供たちが大事という風に考え、小学校でワークショップも行ったそうです。
 私にとって宍戸さんが沖縄で行っていたことは刺激的で、とても羨ましく思うことばかりでした。自分も同じようなことをやってみたいけど、どのように踏み出したらいいのかわかりません。学生で、ここまでのことをやり遂げたというのはとても羨ましかったです。

宍戸遊美氏のレクチャーを通して
柄孝行
 宍戸遊美氏のレクチャーを受け、アートプロジェクトについての自分なりの理解を深めた気がした。アートプロジェクトに関しては、以前ゼミでも取り扱ったものであったため、少し知識はあったものの、行動に移すための準備になにがいるのか、行動に移す際なにをはじめに行えばいいのかなど疑問点は多く残っていた。しかし、東京造形大学の卒業制作としてアートプロジェクトが認められ、予備校時代の恩師の誘いもあり沖縄に単独で行き、多くのプロジェクトをとおして現在に至っている話を聞いて、抱えていた問題の多くは解決できたように思える。
 中でも沖縄のコザ十字路近くの商店街で行ったプロジェクトと、小学校の授業の一貫として行ったものが印象的であった。商店街では空き店舗の一角をお借りして、商店街の人々とコミュニケーションをとりながらのプロジェクトの進行、ありとあらゆる要素(プラス、マイナス)をかかえながらいかにしてプロジェクトを作り上げるかなど、多くの問題を抱えながらも成功をさせた過程がとても印象的で、また沖縄の人々の寛大さ、親しみやすさなども同時に感じた。作品を作り、はじめは興味があまりない人々が徐々に興味をもち、プロジェクトのメンバーと交流をしはじめ、あらたなコミュニティを形成していく。名前も知らない人同士が協力していく過程はアートプロジェクトの影響力を多いに感じられた。また、小学校のプロジェクトでは『子供たちの自分の一番好きな場所を作品として表現してもらう』という趣旨をコンセプトに掲げ、場の調査やその場にこめられた思い、その思いを個人個人で形にして、最終的に発表していくという過程。このプロジェクトでは大人が得る影響が強かった気がした。子供たちがもつ素直さ、また常に興味関心を持ちすぐ手にとって行動に移す。これらを映像で見たときに、今私の中で欠如している部分であるように感じた。これらは一般的に大人といわれる人にも同様に感じられる良い影響ではないかのだろうか。
 アートプロジェクトとは継続していかなければ意味がないことが今回のレクチャーを通して感じた。知らない場に足を踏み入れ、その場の風習や伝統的なものを含んで進行していくプロジェクトを一度自分の身をもって体験してみたいと感じられたレクチャーでした。

表現をアクションへつなぐ
西島慧子
 宍戸遊美氏の「表現をアクションへつなぐことをしたかった」ということにとても共感した。
 表現者として作品を作りだし発表していくことだけに疑問を持ち、何か違うアクションへ繋げることが出来ないかと、取り組んだ卒業制作で行った沖縄アートプロジェクト。内容は、ベトナム戦争時代までアメリカ兵などで栄えていたが、今は地域の人の利用だけでかつての活気はあまり無い商店街で行うアートプロジェクトだ。アーケードなど商店街の自分たちで作り上げていくという人達が集まった手作り感のある商店街。出身の東京から出たことのない宍戸さんが、初めて訪れた沖縄という土地で活動する地域住民とコミュニケーションを取りながら進められていく過程が、作品をただ展示するのではなくアーティストを刺激し一緒に創作されていくことに繋がった。
 地域を活性化していくアートプロジェクトで、一番必要で難しいことだと思う。つまり、活動を行う地域の人の理解と協力をどのようにして得るのかということだ。宍戸さんは、滞在中は商店街の掃除・人に話しかけられたら話を聞くということを続け、まず、受け入れるということを意識したという。お笑い芸人の訓練でも、何を言われても聞き入れ、受け止めることから始めるということを聞いたのを思い出した。コミニュケーションをとる上で、まず相手の事を受け止めることは芸人になる人でも基礎となることに驚いた。日常生活の意識の中で、自分のことを優先してしまい相手のことをないがしろにしていることに気付かされた。自分の世界観には無いものを周りから取入れ、新しいものをつくり出すことが出来るアートプロジェクトではまず、周りを受け入れるコンタクトをいかにとっていくのかが重要なのだと感じた。
 商店街の空き店舗での活動から小学生とのワークショップ。
 『バショカラプロジェクト』
 “小学校のあなたの好きな場所を絵・音・粘土・ビデオ撮影・言葉などいろいろな表現方法で自分の中にある好きな場所のイメージを具体的な物にしてください”というもの。
 教科書から表現方法ばかり習ってきた子供たちが五感を使いながら自由に表現していくのは見ていて楽しかった。
好きな場所が自分の机の上の子が、鮮やかな色彩の作品でとても豊かな世界観が広がっていることが分かったり、学校にある音によって好きな場所を表現した作品によってその子がどんな気持ちでその場所を感じているのか感じとることが出来たり。ありふれた日常生活の空間をそこで過ごす時の気持ちを自分の中で思い出してみる。一人の表現をアクションへ繋いでいくことで周りと共感できるこのプロジェクトは個人の表現の可能性広げていくものだと感じた。
 見過ごされている空間を採掘し新しい価値をアートプロジェクトによってみいだしていく。その活動によって刺激され、その場所の住民や利用者に変化を起こす。表現者も新たな刺激によって表現の範囲が広がっていく。美術館で行われる展覧会と違い、多くの人と作品を共感しながらつくり上げられていくアートプロジェクトの素晴らしさを感じたのと同時にこのような活動に自分も参加したいと思った。

美術=アート
荒木由衣
 今回のレクチャーを聞いて、宍戸さんはアート・芸術を通して、人との関わりを大事にしている人だなと感じました。また、映像についても、言葉はなく、風景と音のみで何かを伝え、感じるという人間の五感に訴えるようなアートを手がけていて、これもアートというものなのだと初めて思いました。そういった意味でも、新しくまた違った世界観を学べたと思います。
 沖縄のプロジェクトも卒業制作についても、学生であるにもかかわらず、自分で資金を集め行動を起こし、実現させていたことに驚き、同時に尊敬しました。そこでも沖縄という地域でのプロジェクトであり、市民との関わりやコミュニケーションが大切になっていきます。そのことに関しても、子供から、年配の方までを巻き込んで、地域全体のプロジェクトにしていたことに驚きました。学生だからといって、最初からできないわけではなく、行動を起こせば、周りの気持ちを動かすことも難しくはないことがわかったと思います。沖縄の土地の雰囲気や宍戸さんの人間性が出ているのか、とても和める作品になっていると感じました。
 “ZERODATE”アートプロジェクトに関しても「コミュニケーション」というものがとても重要になっていると感じました。沖縄と同じように地域全体が参加するイベントになっており、誰でも身近にアート・美術・芸術を体験し実感できるプロジェクトになっています。1番魅力的だと感じたことは、宍戸さんのようなアーティストと気軽に会話を交わせることです。普通のアーティストは、〈雲の上の存在〉となり、なかなか一般人が関わりをもつことが困難だと思います。そんななかで、こういったプロジェクトを通し、子供のうちから、アートを体感できる環境はとてもうらやましく思います。
 今回のレクチャーを通して、芸術というものにももっと興味を持ち、自分から積極的にアートプロジェクトやイベントに参加できたらと思いました。私も、まずは行動をして、人との関わりを大切にしていきたいと思います。

美術=アーティスト
多田早希
 今回の第3回目のレクチャーではアーティスト、宍戸遊美さんのお話をお聞きしたのですが、授業時間と重なってしまったため、お話があまり聞くことができなかったので、宍戸遊美さんが携わっているアートプロジェクトについていくつか調べました。
CUVA Project
 2002年9月に活動が始まり、2005年3月まで沖縄市銀天街を拠点に、5名の東京在住のアーティストと銀天街によって展開されたプロジェクト。
 CUVAとは、悪い夢を食べてくれると言われるバクという動物の名前を逆さにしたら、良い夢を吐き出す手伝いをする動物になるのでは、という発想からCUVAとういネーミングがついた。このプロジェクトはアーティストが銀天街を訪れて、空店舗やアーケード内での展示や、商店街の方々、地域の子供達も参加したイベントを企画するなど、インタビューを繰り返し、見たり聞いたり、話をしたりしながら、その印象やインスピレーションから作品を作っていったそうです。
ZERODATE Art Project
 ゼロダテとは、大館出身のクリエーターが自発的に立ち上げたアートプロジェクトで日付をゼロにリセットし、もう一度なにかを始めるという、世代やジャンルをこえた活動を展開している。2007年には秋田県大館市大町商店の街空き店舗を拠点に空き店舗を約20使用して、120人以上の作品出品者による大型の展覧会を開催したり、2008年のゼロダテではアーティスト・イン・レジデンスという形式でアーティストが旧山田小学校に滞在し大町商店街で制作・展示している。またゼロダテ展は2007年から東京でも開催されており2008年には地域を青森・秋田・岩手にまで広げ「北東北アートネットワーク」と題し、県を越えた文化、芸術的交流を生み出すことで、新しい交流、をすることで広範囲な視点から街の活性化を目指すなど幅広い展開をしているアートプロジェクトです。
KANDADA
 「KANDADA」は「神田×DADA」という意味で、神田の街にダダイズム的視点をインストールしていき、そこから街の創造力を促して行きたいという理念のもとに名づけられ、神田の老舗の印刷会社である精興社の天高4m、約100㎡の1階倉庫をリノベーションしできました。今回のアートプロジェクトでは、オダユウジさんと寺澤伸彦さんによるアートユニット“DIG&BURY”がカンボジアを訪れたときに見た、大量虐殺跡地の殺戮の際に叫び声をかき消すために大きなスピーカーが設置されていた木から着想を得て、それを「矛盾」というキーワードに置き換え、『MAGIC TREE』という作品を中心に、立体や映像作品を通じて来る人に問いかけるというプロジェクトです。
 今回のレクチャーを通していろいろなアートプロジェクトを調べていく中で、旅で得た経験や地域との関わりなどアートというものは形式的なものではなく様々な経験、考えや思い、インスピレーションなどから生まれてくるものだと再認識することができました。そして、自分の身近な場所でも「KANDADA」などのアートプロジェクトが開催されていることを知ることができたので、そのようなプロジェクトに積極的に参加していきたいと感じました。

講演を聞いて
河野麻理
私はこれまでに映像作品というものにあまり接点がなかったので、今回の講演は新たな分野を見ることができとても楽しかったです。今回の講演が終わり、1番感じたのは、「商店街のアートプロジェクト」にしても、「バショカラプロジェクト」にしても1番大切にしているのは、人とのつながり、コミュニケーションだと思いました。そのコミュニケーションがとても大事でたくさんの人との関わりがあったのだという事は映像作品からとても伝わってきて、見た作品はどれもあたたかいものでした。小学生の表現というものは、きっとカメラを向けたりすると正直な表現はできづらいのではないかと感じます。カメラの前では、素直さがかけてしまうような気がしました。なので、その表現を大事にしようとするプロジェクトが台無しになってしまいます。しかし、映像の中には素直な子供とちの表情が溢れていて、あたたかい作品に出来上がっていて感動しました。また、大変興味深かったのが子供たちの考え方です。PCを粘土で作っている子供がいましたが、それを「自然を表現したかった」と言い、緑の絵の具で塗っていたことです。PCと自然とは、かけ離れているというよりむしろ、正反対に属するものなのにそれを結びつけようとするその感性が本当に自由なのだと感じました。周りから見たら、狭いと思われる場所でも、子供には広い=これから先広げる可能性が十分にあるのだというのがすごく共感できました。そんなことまでもわかるバショカラプロジェクトはとても面白いと思いました。そして、映像作品とは、作った人自身が伝えたいことと見た人には、もしかしたら違うことが伝わってしまうかもしれないとも思いました。しかし、そこがもしかしたら魅力的なところであるのかもしれないと思いました。そこにも、人同士のあらゆる感性の違いが生まれ、そして、それを通じてコミュニケーションもまたつながっていくのだと思いました。さまざまなことには、人とのつながりが大事だということが、今回の講演で改めて理解しました。

美術=アートプロジェクト
田中里佳
自分の中でアーティストというのは遠い存在でした。いまいち何をしているのかがわかりにくい物でした。今回のお話を聞いて、今までよりはアーティストについて何か理解できた部分があるのではないかと思う。
地方でのアートプロジェクトを通して自分の知らない習慣や人柄、街にあった提案など新しいことにたくさん出会って、そこから新たな表現や考えが生まれてくる。その地に長くいることで、地元の人たちとの交流が盛んになってより深いところまで理解ができたり、新しい刺激を受ける。自分と年齢の違う人たちとの交流を通して、忘れていたことなど多くのことが吸収できる。自分を表現する上で、さまざまなアプローチ方法が考えられることがとてもよくわかった気がした。
知らない土地にいって何かすることはとても大変なことであるけど、それ以上に吸収することのほうがたくさんあるということなのだと感じた。
私も今まで行ったことのない場所に行ったり、美術館で作品を見たり、違う文化に触れることで、新しい発想が生まれることが多くある。特に美術館を訪れて知識に無いことなどに触れるとなんでもいいから、製作意欲が沸いてくる。
 宍戸さんがおっしゃっていたように、「何かアクションを起こす」というのはとても重要なことであると感じた。起こした先に何があるのかが明確にわかっていなかったとしても、後にプラスになることばかりなのではないかと思う。
前回のレクチャー同様、自分の知らない領域に足を踏み入れることで、新たな発想が広がっていくのだということが理解できた。自分の領域が広がっていくことはとても楽しいことなのでこれからも、いろんな人、知らない街など、積極的に行動していきたいと思った。何においても、きっかけ作りはとても大切なのだと感じた。何かのスタートというのは、知らないところに突如現れるものなのかもしれないと思った。
今回の講演を聞いて、自分の思い、作品をどのような手段で、どのように表現するのかが大切なのだと思った。新しい場所・環境に積極的に行くことで自分の活動領域が広がり、それが制作意欲、新たな表現につながっていくのだということがわかった。
 最後に慎也先生がおっしゃっていたように、表現するものが違うだけで、何かを作り出すという点など建築もアーティストの仲間なのだということに気づいた。どこにいってもコミュニケーションというのは一番大切なものなのだと感じた。もしかしたら一番簡単な行為でありながら、難しい行為でもあるような気がした。

美術=アーティスト
島田梨瑛
 今回のレクチャーで最初に沖縄の商店街のアートプロジェクトについて聞き、手作りで作られたアーケードなどを見てとても面白く、素敵だと感じました。取手アートプロジェクトと同じように普通にそこで生活する人をアートの世界に溶け込ませており、文化、方言や気候などが異なる環境で、アートを通して人が交流できる所が魅力的であると思いました。
 また、アートプロジェクトをする中で商店街の掃除をしていたり、周りの人たちに溶け込むためにいろいろな努力をしていたのだと思い、その行動力がすごいと思いました。建築とアートプロジェクトは周りの人を巻き込みながら作品を作り上げていくところがあり、ほんとうに似ていると感じました。しかし建築の場合、住宅などは一生で一番高い買い物と言われるほどのものであり、専門家が携わらないと作り上げることが困難であるのに対して、このようなアートプロジェクトはいろいろな人たちが自由に作品作りに参加できるのが大きな違いであり、異なるところもあるのだと思いました。
 今までは美術と建築を比較したときに、互いに芸術であり、スケッチをしたり空間を作り出したりと似ている点がたくさんあるとただ表面的に感じるだけでしたが、レクチャーを聞く中で内面的な部分も似ているのだと感じました。美術も作る人以外に見る人や使う人がいなければ成り立たず、人と人とがコミュニケーションを作り上げるために必要なものだと思いました。
 また、映像を見せていただく中で、“バショカラプロジェクト”という所で、子供たちが自分の好きな場所を紹介している風景がとても楽しそうだと感じました。小さい子の発想は私たちにはとても思いつかないようなものがあったり、工夫している点がたくさんあり、いろいろな視点で物事を柔軟に考えていたりするのですごいと感じます。
 私自身、週に一度保育園にボランティアに行くことがあるのですが、やはり小さい子供たちの考え方や空想力は計り知れず、何もないところから作り上げたりするのが上手だと感じます。例えば、サッカーゴールがないときには代わりに棒などを使ったりして、自分たちで作ったりします。また、小さな隙間をダンボールなどを使って秘密基地のようにしたりなど、ちょっとした工夫で自分たちの世界を作っていく行動力や想像力がすごいと思います。なので、このプロジェクトを見ていてすごく納得し、いろいろな年齢層の人と関わり合う事で、自分の視野も広がるのと同時に素敵な空間が作れると思いました。
 映像を見たりお話を聞く中で私が持っていたアートのイメージがもっと膨らみ、美術館などとは違い、見て喜んだり感動するだけではなく、自分が参加したり作品に触れたりするプロジェクトは面白いと感じ、とても興味を持ちました。

アートプロジェクトについて 宍戸遊美レクチャー(その2)

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 17, 2008 0:32 | TrackBack (0)

アートプロジェクトについて 宍戸遊美レクチャー(その2)

アーティスト、宍戸遊美さんのお話を聞いて
川崎絵里佳
 宍戸さんの参加しているCUVAプロジェクトは、初となる沖縄でのアートプロジェクトであり、「沖縄」という歴史的、文化的価値のある都市にアートを残していくことは、多くの国の人々から注目されるものになり、とても奥が深く、意味のあるものだと思います。
 また、沖縄市銀天街を拠点とし、5名の東京在住のアーティストが継続的に地域と関係を持ちながらアート活動を進めていくという環境はとてもうらやましく感じました。
 その土地ならではのアートを生み出すためには、銀天街を知り、人生の先輩たちや力を持て余している子供達、記憶の染み付いた建物、沖縄の歴史、など、生の日常を感じ取り、その数々の出会いから作品を作り出していかなければならないことを知り、アートはとても奥が深いものなのだと感じました。
 空店舗やアーケード内での展示や、商店街の方々、地域の子供達も参加したイベントを企画し、戦後米軍基地だったこの街の過去を伝え、地域の人たちにも、銀天街を知らない人たちにも、アートを通じて理解を深めていってもらうという活動はとても現代的で有効的な手段だと思います。
 しかしここまでに至るまでには、決してアーテイスト一人でアートを生み出していくのではなく、多くの人と話し、街の様子や歴史を感じとりながら「人と人のコミュニケーション」と「人と街とのコミュニケーション」を重ねていくことが必要なのだと思いました。
 アートを生み出す上でコミュニケーションをとるということも、アーティスト達がおもしろいと思う要素なのかもしれません。
 現在進行中の、銀天号を守る「ロープワーク」というプロジェクトにも興味を持ったので積極的に調べてみたいと思います。
 今回の宍戸さんを見ていて個性や協調性が自然ににじみ出ている方だなと感じました。
 自分もそんな人間になってアートの世界に染まりたいと思いました。

アートプロジェクトを通じて
佐藤香菜子
 今回は、KANDADAというアートプロジェクトにも参加しているアーティストの宍戸遊美さんの作品を鑑賞しました。
 「アート」というと絵画や壁面画など、平面的なもののイメージがありましたが、宍戸さんの手掛けるアートは映像を使った3次元的なもので、私の考えていた「アート」の概念を覆すものでした。その作品の中では、ただ真っ白なキャンバスと向かい合って絵を描いていくという平面的なアートでは感じられない、映像アートにおける一番の特徴、魅力を感じることができました。それは、人とコミュニケーションを取り、人に支えられながら作品が出来上がっていくという過程です。つまり、一人では完成しないアートであるということです。
 実際に宍戸さんの作った数々の作品は、すべてが必ず人の協力があって成り立っているものばかりでした。アートを始めるきっかけとなった東京造形大学時代の、沖縄の商店街のアーケードを使って行われたアートや、同じく沖縄で小学生に参加してもらうワークショップとして行われた「バショカラプロジェクト」、富山県氷見で蔵再生プロジェクトとして行われた「ヒミング2007」など、すべての作品の中にその地の住民の人々の映像が取り込まれて、作品の影に住民の方々の理解や支えが合ったということがうかがえました。その中でも特に、秋田県の大館で行われた「ゼロダテ 0DATE」というプロジェクトの中の『nocturne』という作品が印象に残りました。この作品は、大館の日常的な風景や、一日の自然情景の変化などが視覚的な映像のみで収められ、その映像にnocturneのメロディが付加されているという作品でした。通常日常の暮らしの中にも、自然の変化の中にも必ずそれ独自の音を持っていて、その音と映像が一致することで私たちは景色としてとらえることができているのですが、この作品ではあえて本来の音が削られ、新たにnocturneのメロディが重なることで普段の何気ない景色や人々の飾らない生活の様子がどこか叙情的でより魅力的に感じられてしまうのが不思議で、それがこの映像アートのおもしろいところなのではないかと感じました。
 さまざまな作品を通して宍戸さんのアート活動を知り、特に映像を用いたアートは全く未知の世界でしたが、人と触れ合い互いをよく知り合おうとすることで作品ができていくという過程があることにとても興味を持ちました。宍戸さんが油絵の世界から全く違う映像アートの世界に興味を持ったきっかけとなったように、自分の見ている世界をひとつに絞ってしまうのではなく広い視野で見つめることはとても大切なことだと思いました。その手段として積極的に人とコミュニケーションをとることはとても有効なことだと思いました。自分のつくるものを人とのコミュニケーションを通して完成させていくというのはアートだけに限らず建築を作っていく上でも同様であると思います。建築を作っていく上でのトレーニングとしてもその土地土地で形成されているコミュニティに介入し、積極的にコミュニケーションを図っていくことはとても大切なことだと感じました。

コミュニケーションから生まれるもの
森田有貴
 アートプロジェクトとは何を指すのだろう。取手アートプロジェクトのような取手市と市民と大学が共同で行い、アーティストの創作活動を支援し市を活性化するものもあれば、建築家+芸術家による島の再生プロジェクトなどもある。アーティストがその辺に自分が思う作品を勝手に作って勝手に置いて「これが私のアートプロジェクトです。」と言っても、成立するのだろうか、疑問を持ちながら今回のレクチャーを聞いた。
 宍戸遊美氏は初めてのアートプロジェクトの場として沖縄を選び、その作品であるスライドライブを自分自身の卒業制作にまでしていることに驚いた。初めての事に挑むとき人は自分の身近な場所を選んでしまいがちだと思う。その場所に対する知識やポイントとなるところ、周辺環境を把握しておりやりやすいからだ。しかし、宍戸氏は東京から離れた沖縄に幾度も訪れ、周辺の住民に寝泊りさせてもらったり、自分たちで廃虚を寝床にしたり、未知の世界に積極的であった。沖縄のアートプロジェクトの場となった銀天街という商店街には、そこで店を持つ人々や通りがかったおじいちゃんおばあちゃん、近くの学校に通う子供たちが訪れ、「何しているの?」とか「これ何?」という質問をする。ここからコミュニケーションが生まれる。アートプロジェクトとは造る人(アーティストなど)と観る人(地域住民など)が両方いて初めて成り立つもので、お互いが一つのものを作り上げることに参加して、初めて作品ができるのだと感じた。一人では完成しないのである。
 宍戸氏が小学校で行ったバショカラプロジェクトでは、1.自分だけの好きな場所を探す 2.好きなように表現する・つくる 3.言葉に書いてみる 4.仕上げとして発表するという順序で行っていた。授業のように、限られた時間で教科書に書いてある技法でつくるのではなく、自分が思うように好きなように手を動かしてみるというのは、子供たちにとってとても楽しいことだと思う。自分の思うままに造っているからこそ「つくり上げて、気持ちいい!」というような感想が出てくるのだと思った。子供たちにアートに対する興味を抱かせるだけでなく、創造性も高めているように感じた。
 地元の要素を使って、地元の人に見てもらい、アーティストを介すことによって、また違うものに見える。宍戸氏は、作品である映像を見る人に対してどのような感じ方を求めているのだろう。こんなことを感じて欲しいとか、こんなことを訴えかけているというのが明確にあるのだろうか。その映像になる意味を知りたいと思った。
 ヒミングもゼロダテも地域を巻き込んで活動しており、そこに生まれるコミュニケーションを大事にしている。コミュニケーションが“もの”をつくり上げることにおいて、いかに重要であるかを今回のレクチャーで学んだ。「小さなアクションが大きな世界に拡がっていくのではないか」という宍戸氏の言葉に魅力を感じた。

アートプロジェクト 宍戸遊美さんのレクチャーを聞いて
駒井友香
 大学での卒業制作の話から現在コマンドNで行っている活動についてまで様々なお話をしていただきました。中でも沖縄でアートプロジェクトでの話はとても魅力的でした。東京で生まれ育った一大学生が文化も違う沖縄でアートプロジェクトを立ち上げるというのは本当に大変な事だったと思います。まず商店街の通路に作品を置かせてもらうことからスタートし、徐々に地元の人との信頼関係が築かれていき、活動がどんどん広がって言った様は、このアートプロジェクトが本当に成功していた事を物語っていました。
 アートプロジェクトは、美術館のようにただのハコに作品をかざるわけではありません。そこで生活をしている人達がいて、そういう人達と一緒になって作品が作られ、展示されていく。だから何よりも大切になってくるのは人とのコミュニケーションや信頼関係にあるのだと思いました。
 商店街での活動から発生していった小学校でのワークショップ、バショカラプロジェクトでは、子供たちがみんないきいきとしていて、とても楽しそうにしていたのが印象的でした。カメラを向けられても自然な姿で子供たちが映っているのは、ここでも子供たちといい関係が築かれていたからだと思います。自分の好きな場所を紹介してくださいという質問に対して、うれしそうに答えている子供たちの顔はとても輝いて見えました。子供たちの感性はとても豊かで、妹と一緒に机やおもちゃをたたいて音楽を作ったりと、はっとさせられるものばかりでした。学校の教科書が技法的なことしか書いていなかったということからこのワークショップがうまれたというお話がありましたが、この活動のように自由に楽しみながら勉強する事で子供たちの可能性はもっともっと広がっていくということを強く感じました。そしてとても面白い活動だと思いました。
 今回のレクチャーの中で、その土地の人々とコミュニケーションをしながら、その土地の要素を使って作品を作る。それをまたその土地の人たちにみてもらう。そうして素材は循環していく。というお話がありました。この言葉にすごく共感したと同時にこのように作られていくアートプロジェクトにとても魅力を感じました。自分で作品を作って終わりじゃなくて、人や環境などいろいろなものが関わりあって作品が作られていくということはとても魅力的だと思いました。

無題
古山幸太郎
 今回の講義ではアーティストである宍戸さんの若い頃行っていた活動の概要や苦労、成果などを資料や当時のビデオなどを交えて紹介していただくというものだった。最初に紹介していただいた「cuvaプロジェクト」では沖縄にある銀天街という商店街をアートする、という形で始動していた。この計画の話では無名のアーティスト達の苦労などを感じることができた気がする。特に銀天街に到着して商店街の人々に受け入れてもらうまでや空き店舗の使用の交渉など成功するどころか本格的に活動するまでの作業には感銘を受けた。最初の頃は商店街の通りの端のほうで活動し、自分達の作品に通りを歩く人々が興味を示す方に説明して自分達の活動を知ってもらうなど下積みの時間も多く経験していた。しかし、商店街の人々の信頼を受け協力を仰げるようになってからはしだいに活動も広くなり、空き店舗を活動の拠点とし銀天街周辺の住民を集めての発表会まで行えるほどのプロジェクトになっていた。この成果にはとても感心したし、継続することの大変さと成果を感じることができた。このプロジェクトを通し住民と作品を公表するなどして地域の人々に親しまれていた。
 また、宍戸さんは小学校の授業の特別講師として参加し、小学生には数少ない本物のアーティストと触れ合う機会を持っていた。その授業の内容や経過をビデオにまとめていて見させてもらったが授業の課題に対して小学生はとても積極的に参加していた。完成した作品は無邪気なものが多かったがそれでも表現したいことはだいたい伝わってきた。担任の先生と連携して小学生に授業への積極的な参加を促し、それを上手く作品へ結び付けさせていた。小学生ならではの独創的な作品にもアドバイスを与えていてその芸術への柔軟性は自分も見習いたいと思った。
 最後に、今回の講義では、自分のやりたいことの実現のため苦難を覚悟して突き進む姿には見習うべき点を多く見つけることができたと思う。また、建築とアートは似ているようで異な点が多くあったが、芸術という点では同種のものであると思うので、吸収できるとこは最大限自分に取り入れ、今後の就職活動や卒論、また卒業してからの活動に活かしていきたい。

宍戸遊美氏レクチャーを聞いて
藤井悠子
 知らない土地でアートプロジェクトによって、自分とは世代も習慣も異なる人たちとのコミュニケーションが生まれる、けれどコミュニケーションがとれたことだけが重要ではなく、そこで自分がどう関わるべきか、それによってどう影響を受けたり与えたり、今までに無い何かを発見できることが大切なのだと、わかっていた様でわかっていなかったのだと、宍戸さんのレクチャーを通して改めて気付かされました。
 アートプロジェクトで私が好きなのは、もともとある空間であり、かつそこに人がいるところに作品を置くことである。宍戸さんが卒業制作で行った沖縄の『商店街』はものすごく魅力的だと感じました。殺風景と化してしまった商店街に作品を置くことで空間に明るさを取り戻し、街の人たちと話をし、子供たちは集まり遊び場となる。作品を通じることで様々な人つながる、それによってアーティストは次のアイデアにつながることができ、まちは、まちの活性化にもつながる。きっと様々な問題にぶつかることはあるがアートプロジェクトを行う前と後では主催側とまち、両方に何か新しい変化をもたらし、刺激を与え合うことはすごく大切なことだと思いました。
 また、さらに宍戸さんは範囲を広げ小学校で行ったバショカラプロジェクトの映像では、子供たちの創造の柔軟性に驚かされました。男の子が作品を完成させて、「気持ち良い」という言葉には本当に達成感が伝わってきました。
 宍戸さんが私たちに対して、なぜ建築を学ぶ人がアートプロジェクトに興味を持ったのかと質問を投げかけたが、私はこの大学生活の中でやはり建築を学んでいる人と関わりが多いというのもあり、知らずに視野を狭めていることに気付き、色々な人と関わりたいと思うようになり、偶然アートプロジェクトに出会えたのもあって、きっかけとなりました。
 もしかしたら自分が思っていることを表現できる場となりえることもあるし、逆に他人から教わることもあるアートプロジェクトに関わることで、まだ知らない良さ、きっと良くないことも知ってしまうかもしれないが積極的にアクションを起こしていきたいと感じました。

お話を聞いて考えたこと
松田歩弓
 私は最初に宍戸さんを見たとき、自分のイメージする“アーティスト”とはちがうイメージの方だなと思いました。私がイメージする“アーティスト”は、自分の考えに自信を持っていて、だからこそいつもハキハキと自分の考えを述べる人なイメージで、実際に私の周りの美大に通っている友人や、話を伺ったことのある人はそういう人が多く、また、設計の先生方もすごく考えが明確であるのもやっぱりアーティストだからだと思います。しかし、宍戸さんは、とても穏やかに話していました。淡々としていて、聞いている私たちの様子を伺いながら話をしていて、とても謙虚な雰囲気の方でした。それはなんだか私にはとても不思議な感覚でした。
 油絵を描くことをやめて、他の表現方法を探したというのが印象的でした。同じ芸術でも、表現技法が違えば伝わりかたも違う。自分の方向に迷いが生じる。私は大学に入る前、また入ってからもしばらくは意匠設計がやりたいと思っていました。しかし、コースを選択するころになり、そのころにはとても設計・計画コースか、環境・構造コースかで迷ようになり、私は最終的に環境・構造コースを選択しました。今は自分の選択に間違いはなかった、今の勉強にとても充実感を持っていますが、選ぶ時にはすごく悩みました。でも、今思うときっと設計・計画コースを選んでいても、きっと充実していたと思います。それはやはり、自分の根底には“建築”が好きで、それは例えどんな形だとしても、それに携わっていれることが幸せなんだと思うからです。表現が変わっても、すべきことは同じなんだと思いました。 
 残念だったのは、最後に質問する時間があったのに、なにも聞けなかったことです。自分の力で“形”を考えたりアイディアを形にする機会が減っていることを感じました。また、自分の中にはまだ疑問に思ったことをはっきりと示し、答えやアドバイスを聞く能力が欠けているようです。今後の自分の発展のためにも、感じたことを心にとめて進んでいきたいと思います。

宍戸遊美さんのレクチャーを聞いて
山下浩介
 数々のアートプロジェクトに参加し、活動の場を広げている宍戸遊美さんのレクチャーを聞きました。アートプロジェクトというとTAPを見に行っていたからか、最近自分にはよく聞く言葉となっており、なぜか親近感が湧きました。宍戸さんの今までの活動の中から、大学時代に卒業制作として行った、「CUVAプロジェクト」について詳しくお話しして頂きました。
 舞台は沖縄。過疎化が進み、人々が離れつつあった商店街で、通路や空き店舗などを貸してもらい、そこに自分たちが作成した作品を展示することでアートプロジェクトを行ったということでした。そこには地域の住民の方たちの了承を得ることや、いかにアートプロジェクトに興味を持ってもらうかなど様々な問題があったと思います。そこで多くの人たちとなるべく会話をし、コミュニケーションを図ることでこれらを解消したとのことで、アプローチの仕方や行動力にはとても感心させられました。また、現地で小学校を訪れ、アートを通じて子供たちと交流していました。子供たちにはこういったアーティストの方と直接触れ合う機会は滅多にないと思うので、とても斬新で喜ばしいことだったと思います。でも子供たちから学ぶことの方が多いことだと思います。
 宍戸さんの作品は『映像』でアートを表現するものでした。いくつか作品を見させて頂きましたが、作品を通して一番何を伝えたいのかが、正直私にはあまりわかりませんでした。宍戸さんの口から作品について詳しい説明はあまりなかったと思います。しかし、そこには独特の世界観が広がり、惹きつけられる力を感じました。映画などとはまた違う映像としての芸術に出会った気がします。
 今回のレクチャーではアートプロジェクトというものを具体的に知ることができたと思います。資金面もそうですし、地域の人とのコミュニケーションの大切さ、交流を深めることで生まれるもの。自分の中でアートプロジェクトに参加してみたいという気持ちが強くなりました。

アーティスト・宍戸美遊さんのレクチャーについて
薄葉唯
 今回、宍戸美遊さんのお話を聞いて、アートとは誰かから強制されてつくるわけではなく、まずは制作者自身が楽しむものなのだと改めて思いました。
 卒業制作のお話で、学生なのにお金を貯めて、いくら知り合いがいるからといっても、沖縄という言葉や文化が違う土地で、学生だけでアートプロジェクトをおこし、大学の専攻が違うのに卒業制作に認めさせた、決断力と行動力はとても簡単には真似できないと思いました。また、そこまで作品をつくることに一直線になれる姿勢に尊敬しました。そのような姿勢と地域の方たちとのコミュニケーションを欠かさなかったことが、地域の方たちの気持ちを動かし、アートプロジェクトの成功に繋がったと感じました。商店街のプロジェクトもですが、小学校の子どもたちとのプロジェクトの映像を見させてもらいましたが、どの子どもたちも笑顔で、素直で、自分たちの思い思いのものを楽しく作っている姿に驚きました。子どもたちみんなが、自分たちの世界を持っていて、それを自由な発想で作っている姿は本当に楽しそうで、私も小学生の頃にこのような授業を受けたかったと思いました。また、子どもたちのこんなに素直な姿を撮れたのは、子どもたちといい関係が築けたからこそだと感じ、そこでまた、コミュニケーションの大事さを感じました。
 今まで、正直、アーティストという方たちは、失礼で申し訳ないですけど、天才気質で他人との関わりとかは関係ないという方たちというイメージがあったのですが、今回のレクチャーでイメージが大きく変わりました。私は現在、3年で就職活動中なのでコミュニケーション能力という言葉をよく耳にしますが、人と人との関係の中で何らかのアクションを起こしていくには、どんな分野に関係なくコミュニケーションというものは大事だと感じました。
 また、楽しむことの大事さも子どもたちの笑顔を見ていて感じ、今回のレクチャーで、ものをつくるということの根本を再認識することができました。私も積極的に楽しんで建築に向き合いたいと改めて思いました。

宍戸遊美さんのレクチャーを聞いて
石川雄也
 今回、宍戸遊美さんのレクチャーを聞いてアートや表現は自分が今まで思っていたよりももっと自由で広いものなんだなと思いました。
 沖縄では商店街から始まったプロジェクトが現地の人々とコミュニケーションをとったり、その地の持っている空気を感じ取ったりすることで作品につながっていったり、その作品の展示が新たな出会いを生んだりと、ひとつのアクションがどんどんいろんな可能性を生み出していくことに自分は魅力を感じました。また老朽化して雨漏りをしているアーケードのようにネガティブな要素もポジティブに捉えなおしていく姿勢に素敵な感性や柔軟さを感じました。
 小学校の子供たちとのワークショップや交流を映した映像作品では穏やかな雰囲気の中で子供たちが自分の好きな場所を探したり、粘土で作品をつくったりと、とてもかわいらしく撮られていたのが印象的で見入ってしまいました。その中でも宍戸さんと子供たちとの接し方がどこか不思議で自分には魅力的に感じました。たぶんコミュニケーションのとり方もクリエイティブでいろんな人をプロジェクトに巻き込んでいく力になっているんだと思います。
 それに大学で絵画を専攻していた宍戸さんが卒業制作でアートプロジェクトのような絵画とは一見関係のなさそうな表現方法を選択したところにも一貫した柔軟な姿勢を感じ取ることができ非常に刺激を受けました。
 また最終的な成果物としての映像作品だけではなくそこに映し出されない部分も含めて沖縄での活動や人々との関係性自体が作品となっているところに強い興味と新鮮さを感じました。
 もしアートプロジェクトのようなものがもっと一般的になって、アートのような非日常的な出来事が多くの人々の生活に入り込んでいったなら、日常がもっと豊かになっていく手がかりになるのではないかと思いました。またそういう意識を地域で共有できれば、新しいコミュニティのあり方に繋がっていくのではないかと思います。
 私は、まだアートプロジェクトやワークショップなどに参加したことはありませんが今回のレクチャーをきっかけにいろんな人と関われる場に参加してみようと思います。

ししどゆうみさんの話を聞いて
高野真由美
 卒制で沖縄のアートプロジェクト。
 やったときの何もないところから自分でプロジェクトを立ち上げ、成功させることの大変さと充実感を感じた。問題が漠然としすぎてどう自分と関わらしていくかを悩んだときにまず「動く」というアクションを起こすことにとても尊敬し、すばらしいとおもった。何をすればいいか分からないときに、後のこととかこれからのこととか考えずに、とりあえず行動するというのはなかなかできることではないし、実際わたしもその一歩が踏み出せないでいることがよくある。その一歩を踏み出す勇気と行動力がある人がアートや芸術の中で生きていける人なんだと感じた。
 また、あらゆる環境もすべて受け入れるということ、とりあえず動くということ、そしてコミュニケーションの大切さというのは、アートをやることと建築をやることは似ていると感じた。最初は受け入れてくれなかった商店街の人々も一生懸命コミュニケーションをとっていくことで、自分の思い、やりたいことを伝えていき、それを認めてもらう。そのコミュニケーションの手段は言葉だけではなく、アートであったり、体験であったり、それは建築をやる上でとても近い部分であると思った。先生が最後におっしゃていたことにも深く考えさせられ、建築とはコミュニケーションが大切なんだということを改めて実感させられた。このように建築をやることに似ているアートプロジェクトをやることで、自分の建築に対する思い、取り組み方というものが変わっていくのではないかと、とても興味が湧いた。
 バショカラプロジェクトをやったときの子どもたちのVTRをみてものをつくることの楽しさというようなものを思い出させてもらったような気がした。作品を作り上げたときの楽しさ、うれしさ、気持ちよさというものを子どもたちが素直に言っていたのをみて、自分もそうであったということを思い出したような気がした。
 私は最近設計課題をやることに疑問を感じることがあった。最近設計をやることが嫌になることがあったのだ。1年、2年と設計を楽しくやってきた。自分が好きだから建築をやってきたし、設計もつらいときも楽しくやってきた。しかし3年になって、好きという気持ちが薄れたのか、自分からやるというよりも、やらされているという気持ちが出てきた。その感情が嫌でどうすればいいのか、今後就職も含めどうすればいいのか悩んでいた。このまま就職も建築関係の仕事についてやっていけるか不安だった。だけど、ものをつくることの楽しさは変わらないし、その楽しさを知っているわけだから、ずっとやっていこうと感じた。
 今回ししどさんのお話を聞いて、自分の中でもやもやしていた建築に対する気持ちが少し晴れたような気がした。
 今回の講演を聞いてぜひ私もアートプロジェクトに参加したいと思った。

アーティスト宍戸遊美さんのレクチャーを聞いて
大澤梢
 レクチャーの中で、宍戸さんの作品である、バショカラプロジェクトの話がとても印象に残った。今の学校などでは、変に団体意識を持たせようとしていたり、少し変わったことをすると普通ではないと直させたり、1人1人の個性を潰してしまっていることが多いと思う。
 この映像の中で、子供たちが机や床をぐちゃぐちゃにしながら作品を作っているシーンがあり、印象に残り、とてもいいなと思った。自分の小学校時期の図工では、図工室といえども過度に汚すと怒られ、何をするかは決められ、絵の具は筆で塗り、時間内に終わらせなければならない、ある意味窮屈な時間だったような気がする。
 それを、この映像に出てくる子供たちは、自分たちが好きな場所で好きなモノを好きな表現方法で、汚れるのも気にせずに熱心に作っていた。そして作品を作りあげた後の、「気持ちいい」という一言は、宍戸さんもハッとしたとおっしゃっていたが、私も何か自分の中に強く残った。
 また、このバショカラプロジェクトでは、順序立てて一段階ずつ作品を作りあげていくプロセスがすごくいいと思った。このプロセスを作り上げていくということは、アートや物を作る時だけに限らず、人間が生きていく上でとても大事なことであると思うが、このプロセスを学ぶ場所というのは実はあまりないのではないかと思う。このプロジェクトでは、子供たちの感情や感覚、個性を引き出し、またそこで終わりではなく、それを形、言葉にして、何故そう思うのか、何故こういった形になったのかを1人1人に考えさせている。特に今自分が建築を学んでいて、このプロセスが一番難しいと感じているからなのかもしれないが、こういった順序だてた考え方を子供たちに教えるのは、技術や方法を教えることより大事なのではないかと思う。
 このレクチャーで宍戸さんの話を聞いていて、本当にアクティブな人だなと思った。大学時代にすでに沖縄へ行き、自分たちだけでアートプロジェクトを立ち上げていたことに対してももちろんだが、「自分の視点は社会のディテールの一部」と考え、自分の絵を外につなげようとする体制から、自らが動いてコミュニケーションで繋がっていこうとする体制への切り替えに対してそう思った。宍戸さんはさらっと言っていたがこの切り替えはなかなか容易なものではないと思う。宍戸さんの油絵やアートに対する気持ちが強く、真正面から向き合っているからこそできた切り替えだと思うし、また作品を自分が描きたいもので終わらせていたら、きっと今のような映像作品だったりアートプロジェクトへの取り組みには繋がっていなかったのだろうと思う。
 アートプロジェクトでの、コミュニケーションを取り、その場の環境を取り入れて作品を作っていくということが建築に関しても同じであり、宍戸さんの話を聞いてとても参考になったが、それ以上にもっと自分の根本の意識や表現について考える機会になった。

無題
西濱萌
 2008年12月12日(金)アーティスト、宍戸遊美さんを招いた「CUVAプロジェクト…etc」のレクチャーに参加しました。
 私は絵の具が好きです。
 自分だけの色を作ることが出来る反面、同じ色は作ることができないから。そして、同じ色を作るために色を調合していく過程が楽しくて大好きです。
 遊美さんたちが沖縄の子供たちに、水に浸した画用紙に水彩絵の具を垂らして一枚の作品にするという授業を行ったと紹介されました。計画的に絵を描くのではなく、段々と絵が出来上がっていくことは意外な作品が出来ることもあるので、私も好きです。
 今回、宍戸遊美さんのレクチャーを聞いていて、表現の方法は様々だけれど、すべてにおいて共通するものは“コミュニケーション”だと実感しました。
 絵画科出身だったので、油絵の作品が説明されると思っていました。実際は、沖縄での空き店舗を使ったCUVAプロジェクト、沖縄の学校で子供たちと一緒に「一番好きな場所」紹介から始まり「言葉での紹介」、「ものでの表現」をされている姿、最後に秋田県での雲の動きの映像レクチャーでした。
 CUVAプロジェクトのレクチャーのときに一番面白いなと思ったのが「雨もりのポジティブ化」で、作品はよくわからなかったのが正直な感想ですが、自身がポジティブな考え方の持ち主のせいか、「この発想はいいな!」と素直に思いました。
 地域とのコミュニケーションを半年にわたってとることができたのは、沖縄という小さな地域ならではだと思います。都会でこのプロジェクトをしようとしたら、意識を向けさせることも、店舗を気兼ねなく貸してもらう事もとても難しいと思うからです。
 子供の存在が大きいという視点は私も共感を持ちました。子供の発想力や想像力はすごいと思います。「学んでいない」ことは逆に、何かに縛られることがないので自由な発想をすることが出来るので、素晴らしいと思う反面羨ましいと思います。
 遊美さんの様になにかに没頭してチャレンジすることは、学生のうちにやっておきたいことですが、すごく勇気のいる行為だと思いました。それでも、なにかをチャレンジすることは自分の存在をアピールすることにも繋がるし、知らない人とのコミュニケーションをその場でとれる可能性もあるので素敵なことです。
 自分の価値観や想像力、人への接し方もたくさんの“人”に出会う事によって影響されたり、変化していくし、人は一人で生きていくことは出来ないのでやはり、コミュニケーションは無限の可能性への第一歩だと思います。私は日々出会う人へとても感謝をするし、“縁”という運命を信じています。そして、運命だけではなくこれからも自分から進んでたくさんの人とコミュニケーションをとって成長していきたいと思いました。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 17, 2008 0:32 | TrackBack (0)

シリーズ・コンプレックス・シーイングについて 阿部初美レクチャー(その1)

2008年11月28日(金)、2008年度第3回ゼミナールとして、演出家の阿部初美により、「シリーズ・コンプレックス・シーイングについて」と題したレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

SCSの取り組み 演出家・阿部初美さんの話を聞いて
大沼義邦
 私は失礼ながら、全く前知識がない状態で阿部さんのお話を伺い、初めてSCS(シリーズ・コンプレックス・シーイング)という活動を耳にした。複合的に見るシリーズで、基本的に台本がなく取材したことを元にした即興の演劇という説明を受けたが、正直なところ始めはよく分からなかった。そもそも日常的に演劇を見に行くようなこともなく、イメージとしたら劇団四季のライオンキングぐらいしかパッと思いつくものもなかった。演劇は、たくさんの役者とたくさんの台詞で完成されたストーリーが演じられるものだと思っていた。そんな私には、演劇のギリシアから始まる歴史の話はとても興味深かった。
 役者の迫真の演技とつくり込まれた脚本によって、観客が役に感情移入しカタルシス(浄化)を得るというのが、まさに私の想像する演劇であった。それに対して、観客に感情移入させない非アリストテレス的劇作法というものを知り、驚いてしまった。観客に批評的に劇を見てもらう為に、あえて異化を際だてさせ、役者は役に入り込まずに演じる。なんとも面白い劇である。と、始めは単純に面白さを感じたが、その手法がナチスドイツ時代にB・ブレヒトが感情同化を危険視し、生まれたと聞いて違う意味で納得してしまった。
 前の話もそうだが、阿部さんの話を聞いていて思ったことがある。それは演劇が政治や時代・社会背景の影響を大きく受けていることと、演劇が政治や社会を変えるための手段に用いられてきたということである。最初に述べた通り、私は演劇と言われてライオンキングぐらいしかパッと浮かんではこなかった。私の認識では単に演劇=娯楽であった。もちろん娯楽も演劇の持つ大きな要素ではあるが、それ以上のモノを発信する力を演劇は持っているのだと阿部さんの話を伺っていて感じた。最後に阿部さんがおっしゃった「劇場を“思考の場”に」という言葉からも、そう思えることができた。それこそ始めに阿部さんが作品を紹介した際、「4.48 サイコシスは精神障害についての話、アトミック・サバイバーは原発の話、エコノミック・ファンタスマゴリアは市場の話」と聞いたときは、内心なんて重い話ばかりなんだと思っていたが、最終的にSCSの活動は娯楽を提供するのではなく、社会的テーマを取り上げ普段テレビでは伝えられないことを観客に知ってもらい、思考の場をつくっていると分かって納得できた。
 実際に一部ではあるが作品を見させていただき、これもまた衝撃的であった。「4.48 サイコシス」は観客がどういう気持ちで見ているのかが、とても気になった。なかなか今の私には解釈しきれない部分もあり、おそらく実際に観客としてその場にいたら、“痛み”というテーマから目をそむけていたかもしれない。それに対して、後2本はユーモアが入り観客として見やすいものに感じた。社会的テーマへのメッセージ性と娯楽的要素(ユーモア=笑い)の両方があって、それが行政への皮肉として用いられていたりして、笑ってしまう場面がたくさんあった。
 普段建築分野にこもりがちな私には、阿部さんのお話がとても新鮮で興味深いものだった。何より阿部さん自身も解説をしてくださりながらも笑っていて、作品に対する愛着は、演劇の作り手も建築の作り手も同じものだなと感じた。ただ演劇は、その一瞬を逃したらもう二度と見ることが出来ないというのがネックでもあり、醍醐味でもあるのかなと思えた。そう考えると、形として残していける建築という分野は作り手として幸せなことである。演劇という分野に触れることで、建築分野の魅力が改めて分かった気がする。そういう意味でも本当に面白く、魅力的なお話が聞けてよかった。

演劇=演出家:阿部初美さんの講演
田中里佳
 「シリーズ・コンプレックス・シーイング(SCS)」のお話を聞いて、自分の考える領域が広くなった。演劇という分野は今まで触れる事のない領域であった。もっと言ったらあまり考えた事もなく、演劇という言葉の意味が初めてわかった気がした。B・ブレヒトの複合的に見る・異化という事と、アリストテレスの感情同化という考え方について理解することができた。今まで、映画などを見るとき感情同化する事がほとんどであった。気づかないうちに話にのめり込んでいき、出演者と同じ気持ちになっていたりすることもある。新たに、異化という演出方法があることがわかって、新しい見方がある事を知った。B・ブレヒトが考えるように、感情同化することがいかに危険な事であって、異化することで、ある問題を客観視し、その問題をより身近に感じられるという事がわかった。また、B・ブレヒトのように、ナチス政権下という周囲の環境から、思想に大きな影響を与えるということから、身近なものからの影響力は自身の思想を作り出す一つの要因でもあるのだと改めて感じた。
 1909年に演劇が始まり、この当時の演劇関係者は世界を見ていたという話を聞いて、確かに現代社会、多くの人々はすごく近いものにしか目がいっていないような気がした。自分も含め広い視野というものを忘れてしまっているような気がした。ほんの少し視野を広げるだけでも、世界というものの見方が変わるのだということを感じた。異化という方法で演劇を鑑賞するということが新鮮なことであって、新しい思想というものを生み出してくれるような気がした。
 三作品を鑑賞して感じたことは、どの作品も特定の役というものがないので役柄にのめり込むということはない。しかし、作品にのめり込むということが言えるのではないかと思った。役者と観客が一緒に問題解決する、もしくは同じ題材について考える。観客に問題を問うことでそれぞれの考えが生み出されて、それぞれの思想が生まれる。皆が同じ考え思想になってしまうのではく、個々の思想がぶつかり合うことに面白さを感じることができるのだと思った。
 一つの劇の中で、映像を入たり、シーンを完全に見せるのではなく、断片的に見せることで、役にのめり込むことなく、より客観的に見ることができるのである。
 今回の講演を通して、分野を越えて、さまざまなジャンルの人々と交流することでいろんな思想の考え方に触れることの面白みが今まで以上に理解できた気がしたし、もっともっといろんな世界に足を踏み入れていく必要があると強く感じた。演劇というものを通して、さまざまな世界の人々が1つの事を共有し、その中でいろんな意見が飛び交い、つながりあうことができるのはとても刺激的で面白いと感じた。
 今回は演劇というツールでさまざまな思想の交流ができることがわかった。他にもいろいろなツールを使って新しい思想の交流をしてみたいと思った。

演出家:阿部初美さんの講演を聞いて
高木彩名
 「シリーズ・コンプレックス・シーイング」のお話を聞いて、演劇に対する考え方が変わった。私は今まで演劇をみるときに、役者の人、役柄にのめりこんでいる自分がいたことに気づき、アリストテレスの感情同化の話を理解することができた。また、B・ブレヒトによる考えを聞き、ナチス政権に置き換えた感情移入の説明などにより感情同化する演劇が怖くもなった。
 今まで演劇を見るとき、何も考えず演劇を見ていた。今回ドキュメンタリー演劇というものがあることを知り、自分が今まで見ていた演劇を見直すことができた。シェイクスピアの演劇をみて目的→行動→障害→葛藤・対立という流れがあり、その役にのめりこみ「楽しかった」「悲しかった」などの感想で終わっていた。しかし、「ドラッグ」を題材とした演劇を見たとき、とても考えさせられた。「非アリストテレス的劇作法」によって役者が役柄に対して3人称で演技をしていることで、「思考の場」として演劇を見ていたことに気づいた。演劇を見た後の感情の違いがあり、演劇の見方が変わった。
 今回、3つの作品を見て、阿部さんの解説を聞きながら聞くことで、普通に見るよりも演劇に対して考えながら見ることができた。ドキュメンタリー演劇を見るときに、台本がなく、取材することで、構成されているということを思いながらみて、1つ1つの作品がリアルに描かれていることを感じられた。
 「4.48 サイコシス」をみて、精神障害に対しての個人からの目線、社会から見たときの目線で描かれ、精神障害というものの苦しみや怖さがリアルに伝わってきた。映像や音楽、舞台セットなど、演劇の世界だけでなく、さまざまな人たちが関わり作られていることで世界観が広がり、面白い物が作られていくのだと感じた。「アトミック・サバイバー」では、原発について、分かりやすく説明されていた。現地の取材や、映像によって、さまざまな目線から作られていた。「エコノミック・ファンタスマゴリア」はぬいぐるみを使って画面の中でお話が進んだり、観客から舞台が見えなかったり、さまざまな構成によって作られていた。さまざまな構成によって作られていて、作品によって違う表現が面白かった。
 演劇は映像としての作品を残しておくことはできない。舞台を見に行きその場の空気を味わい、感じていくものである。今回の公演で、演劇という世界に触れられ、演劇というものの見方が変わってよかった。

11月29日の阿部初美さんの講演を聞いて
河野麻理
 演劇というものにあまり興味がなかった私にはとても面白いものでした。私が今まで見た舞台というのは、有名人が出ているような本などで原作が既に出版されているものか、歌舞伎か宝塚だったので、このような本当に演劇をどのように見せるかなど構成の考え方を聞く機会に会えて演劇に興味が出ました。何気なく見ている、普段のテレビドラマにも、目的→行動→障害→葛藤・対立のこのサイクルが決まってあるものか、あれからものの見方が変わることができました。しかし、それは、今まで単純に感動をしていただけの自分から作家側の立場の構成を考えてしまうようになってしまい、素直に感動が出来なくなってしまった様に感じます。そこで思ったのが、これこそがブレヒトの考える、「非アリストテレス的劇作法」に似ていると思えました。
 感情同化だけでは洗脳状態で終わってしまい、そのことがダメだとされたのは、その時代(例えば、ドイツナチスのヒトラー独裁政権)の背景が反映していると講演では言っていたのを聞いてとても興味深かったです。しかし、もし今の時代ならきっとそんな時代があって今その独裁政権などが批判されてるからこその、この時代ではもしかしたら「非アリストテレス的劇作法」とは違った、新しい劇作法があるのではないかと思いました。
 そこで、今回の阿部さんが作った作品を見て、1作品目の「4.48 サイコシス」は、確かに重い内容のように受けました。でも、多くのメッセージがたくさん場面ごとに含まれていて、それが本当にすごかったです。そして何よりもラストシーンで観客の人に劇の終わりを任せるといった考えが新しく斬新だと思い驚きました。新しいだけでなく、そこにはまたメッセージが含まれていて、構成が面白かったです。また、途中に出てくる、映像を使って、社会と個人の遠近法の苦しみの表現なども見ていて圧倒されました。
 2作品目の「アトミック・サバイバー」では、また一変してミニチュアでわかりやすく原発についての説明や、踊りで重い内容を説明するなどの手法が新しくて楽しんで見れました。スクリーンを使ってところどころショートムービーを流す手法も面白く、こんな構成があるのだと、感心しました。
 3作品目の「エコノミック・ファンタスマゴリア」では、舞台構成に驚きました。お客さんをも舞台の一部としているところがすごかったです。そしてその人たちを含んでの客席からの舞台の見え方と、舞台上にいる人からの見え方をスクリーンで映し出すことで、立場を同等のものにしていることもすごいと思いました。お客さんからは見えている腹話術の人間側と、スクリーンではあたかも人形が話しているかのような、見せ方。
 スタッフや、撮影機材などは見せないなんてことはしないありのままさ。どれも、「異化」というものを目指し、それはブレヒトに真似て作ったような説明でしたが、阿部さんのオリジナルの構成が見えてとても面白く感動しました。阿部さんの説明がなくただ単純に見てたら気づけなかったこともたくさんあったと思いました。新しい視野を見つけられたような講演会でした。参加できて良かったです。

演劇=演出家、阿部初美さんのレクチャーを聞いて
島田梨瑛
 私は今回レクチャーを聞く中で、今までなかなか演劇を見た事はなかったので新たな視野が広がったように感じました。ドキュメンタリー演劇が台本がなく、あるテーマのものを取材してきて作品を作り上げていくものだと知り、今まで私が知っていた感情を表現し、お客さんにも感情移入させるものとは反対で、B・ブレヒトの説いた非アリストテレス的劇作法なのだと思い、演劇にもいろいろな種類があるのだと感じました。小さい頃からバレエをやっている私には、なかなか感情移入をせずに演技することや、またお客さんにも感情移入させないという考え方が理解しづらかったため、映像を見せて頂けたのでとてもわかりやすかったです。また役者の人が1人称と3人称を交互に喋っていたので、普通に感情を溢れ出させて演じるミュージカルなどよりも難しく、大変だと思いました。
 特に印象に残ったのがvol.0の「4.48 サイコシス」で、他の2つの作品とは部類が違い、見ていて本当に恐ろしく、逆に感情を通り越して客観的に見れ、ドラマのように感情の上がり下がりが激しくないからこそ、最後の方では冷静に見れたのだと思います。最後のシーンの「カーテンを開けてください」という所で、お客さんに開けてもらわないと舞台が終わらないというところがすごく酷だと思いました。このレクチャーを聞いていた時にはすごく重い話題を扱っていて難しいと感じていましたが、配布されたプリントを読んだり、後々考えると、とても意味深い演劇であったと感じました。プリントに“「ある特定の個人の、ある時期の物語」としてこの作品を描くよりも、むしろ「様々な人々の生の交錯する場」として、社会的な広がりを持たせることが、この作品の意義を明確にしてくれるだろうと考えた”とありました。実際に私自身、ドラマなどを見るとすごく感情移入させられ、その人自身になったように感じてしまいますが、その感情はずっと続くわけではなく一時的なもので、自分とは違う人のお話として解釈し、その時感じた感情は段々薄れていってしまいます。しかし、今回の映像は感情移入せず冷静に見る事ができ、もっと現実的に身近な問題として感じる事が出来ました。実際に先進国と呼ばれる国で唯一日本だけが主要国の自殺率の10位に入っており、普段通学する中でも電車での人身事故は多く、その心中の理解が難しい所もあり、他人事になってしまう所もありますが、このような事は他人事ではなく、一人一人が親身になって考える必要があることだと思い、このように演劇化することで、見た人が判断し、感じることも多くあるのではないかと思います。
 実際にその上演に反対されている方もその場で見ていたと聞き、舞台だけでなく客席の人をもその演劇に巻き込んでいるような感じがし、いろいろな批判も受けると仰っていましたが、それも一つの作品を作るうえで演出となっていると思い、その作品が出来るまでにもいろいろなドラマがあるのだと思いました。また、着替えの風景をお客さんに見せていたり、1つの作品を取材し、作っている過程をありのまま演技したり、お客さんに見てもらうのも新たな演劇なのだと思いました。

SCS(シリーズ・コンプレックス・シーイング)を鑑賞して
佐藤香菜子
 舞台演出家である阿部初美さんのお話を聞き、実際の演劇を鑑賞しました。
 今まで私は劇場に足を運んで演劇を鑑賞したことはなく、本格的な演劇を見るのは今回が初めてでした。阿部さんもおっしゃっていたように、私の中にも演劇といえば過剰に役を演じようとしすぎるイメージがあり、少し引いた目で見ていました。しかし、今回の「ドキュメンタリー演劇」は、断片的なシーンしか見ることができなかったにも関わらず、演劇のおもしろさに大きな衝撃を受けました。
 まず、精神障害をテーマとした「4.48 サイコシス」を見ました。
 この作品は「舞台芸術」10号の中の特集において“「ある特定の個人の、ある時期の物語」としてこの作品を描くよりも、むしろ「様々な人々の生の交錯する場」として、社会的な広がりを持たせた”とあるように、主人公として一人にスポットライトが当たる従来の演劇とは違い、同じ空間で様々な出来事が同時進行しているものでした。作品の内容は過激なもので、特にクライマックスの集団自殺のシーンには恐怖を感じました。しかし同時に、このように思考が止まり、人間らしさを失ってしまっている精神障害の人が実際にいるという現状を思い知らされました。この作品に賛否両論があるということは理解できますが、鑑賞した人が必ず何かを考えさせられるという点で、社会に対するメッセージ性の高い作品だと思いました。
 次に、原発をテーマとした「アトミック・サバイバー」を見ました。
 この作品では、阿部さんがドキュメンタリー演劇における特徴として掲げている、映像と演劇を同時に流し、「思考の場」として同じ問題を共有しあい、共存するという演出が行われていました。ここでは実際に原発誘致に関わる賛成派、反対派が互いに集まり、緊迫した空気に包まれたという話もあり、原発という身近な社会問題を中立な立場から捉えて表現するということは、時にリスクを伴うものなのだということを感じました。
 最後に、市場経済をテーマとした「エコノミック・ファンタスマゴリア」を見ました。
 この作品では、「第4の壁をなくす」として、客席と舞台の境をなくすという演出がされていました。客席の中に舞台があったり、逆に客席から舞台にあえて死角を作ったり視覚の操作をすることで、舞台と客席の境界だけではなく観客と演者の境界も曖昧にし、作品のテーマをより身近に感じさせる上で効果的に作用していました。観客のほとんどが消費者であるので、市場経済は日ごろから感心あるテーマで、誰にでも気軽に考えやすい話題であり楽しんで鑑賞することができました。
 そもそも演劇とはドラマ=行動に基づいているもので“ドラマとは人間の行動を模倣・再現するもの”とアリストテレスが提唱したように、目的→行動→障害→葛藤・対立という人間の思考サイクルを演じているものであると捉えられていました。しかし、今回の3つの作品に共通して言えることは、非アリストテレス的劇作法と呼ばれるもので、B・ブレヒトの提唱してきた「異化」が効果的に用いられていることです。
 「異化」とは見ている人に感情移入させないという意味を含んでおり、第三者的な視点から問題をとらえることで、一人一人が問題に対して各々の意見を持てるということが特徴であるように感じます。今回作品の中のたった一幕しか見ることができなかったけれど、私自身も自分なりの考えをもって鑑賞することができたと感じています。
 演劇は建築や絵画と違い3次元的なもので、そのときその場でしか見たり感じたりすることができず、映像としての記録は残っても、演劇としての完成形はたった一度しか味わえないものです。今回のレクチャーを通して、演劇の世界にも興味を持ち、劇場に足を運んでその瞬間でしか感じることのできない世界に触れ、自分の中で思考をする時間も大切にできたらいいなと感じました。

阿部初美氏のレクチャーについての感想
光永浩明
 演出家阿部初美氏ののレクチャーを聞いて、ビデオを見る前に、アリストテレスとB・ブレヒトの話をしてくれました。アリストテレスは感情的で、カタルシスな演出方法で表現されていて、テレビドラマのようなものだということが分かった。一方B・ブレヒトはアリストテレスの方法を否定して、感情的にならずにリラックスして見れる異化という演出方法で表現されているということだったが、僕はその異化というのが具体的にどのようなものなのかがビデオを見るまで分からなかった。今回のビデオがその異化で表現されているシリーズ・コンプレックス・シーイングというドキュメンタリー演劇を実際に見せてもらったが、正直内容がよく分からなかった。演劇といえば、主人公がある目的を達成するために行動をし、障害や葛藤、対立に遭遇しても、それを乗り越えていくというドラマチックなイメージがあったので、この作品は結局何を伝えたかったんだろうという疑問が残り、表現もいい加減だなとこの時は思いました。ビデオを見終わった後に補足として、これは思考の場としての劇場であると言われ、ますます訳が分からなくなりました。分からないままレクチャーが終了して、後でもらった配布資料を読んでいたら、やっとあのビデオの内容の意味が分かった。原発や市場経済というテーマから僕はてっきり主人公が現れて、それにどう関わって、活躍していくのかと思いながらビデオを見ていたから内容が最後まで分からなかったことに気付きました。そうではなく、このテーマについて人々のそれぞれの立場や考えを映像にして表現されたもので、全体を通して一つのことを伝えるのではなく、場面場面に区切って、それぞれがこのテーマについてこう考えているという事実を伝えているということが分かりました。改めてビデオの内容を思い返してみると、意味が通っているなと思いました。この表現なら価値が多様化することなく、共有できる場になると言ってますが、確かに言われれば、このことについてアリストテレスのような感情に流されることなく、賛成や反対がでてくるような内容でもなく、この事実を伝えることで自分がどうするべきなのかを考えさせられる結構奥の深い内容だったんだなと思いました。演劇ではドラマみたいに感情的になる内容が多く、僕はそれしか知らなかったけど、全く感情的にならずにただ事実だけを伝えるという思考の場となる表現方法もあるんだなということが分かりました。あと最初はいい加減な演出空間や表現だなと思っていたのが、意味が分かるとそういうことだったんだなということが分かりました。最後に、時間が予定よりも長引くほど、伝えたい話だったんだなと思いました。そういう話を聞ける機会は滅多にないからでてよかったと思います。

無題
柄孝行
 今回、阿部初美氏にレクチャーしていただき、改めて演劇という世界が広いということに気づかされた。演劇とは、舞台の上で言葉、動作によって物語または思想、感情などを表現して観客にみせることだと思っていたが、なにか違う演劇の世界を垣間みた気がした。舞台装飾には色々あると思うが、建築、映像なども取り入れ、視覚的に観客に訴えるものがとても強く、観客までも舞台にワンシーンではあるが参加してもらう構成には、非常に驚きを受けた。正直、あまり演劇というものを見る機会があまりなく、最近知り合いの舞台を初めて見に行ったほどだった。その時も初めてが故に、演劇というもののおもしろさ、難しさというものを少ししか感じ取れなかったが、阿部氏の行っていることは普通の演劇と違うと思う。普通の演劇では、テーマが明確で話の内容が理解しやすい。しかし、阿部氏の行っていたシリーズ・コンプレックス・シーイング(以下SCS)はテーマがとてもつかみにくい。精神障害、原発、市場経済など、普通、演劇ではあまり取り上げられないテーマだと思うし、演ずることが非常に困難であると思う。しかし、このようなテーマを演ずることで、観客が考えさせられることは非常に多く、実際レクチャー時の映像を少し見ただけでも、精神障害についてすこしの時間ではあるが、一人で考えられる機会が得られた。普段の生活の中で精神障害、原発、市場経済など考える機会もなければ、話題も少ない。あるとしたら、テレビで取り上げられるときぐらいだろう。このようなテーマで演劇することの価値は計りしれないし、実際に大きな問題であったテーマに対して観客に考える機会を与えることが、この演劇を通して伝えたいことの一つなのかもしれない。演劇の捉え方は観客それぞれである。そこは異なってもいいが、大切な機会を観客に与えたいのかもしれない。テーマだけを聞くと敬遠しがちな演劇だと思う。深く知ることで痛みを伴うこともあるしれない。ただ、単に重い演劇ではなく、観客の脳裏になにかしら認識を残すために、笑いとかユーモアが含まれているような気がした。今回のレクチャーは建築的な考え方ではなく、演劇を通して自分の人間性に訴えるものがとても強いものであった。

演出家 阿部初美さんのレクチャーを聞いて 
小石直諒
 11月28日、演出家の阿部初美さんのシリーズ・コンプレックス・シーイング(以下SCS)の3作品についてお話を聞かせていただきました。阿部さんは,2006年から『4.48 サイコシス』をvol.0としてSCSというシリーズの演出を手掛けています。
 ここで、ドラマというのは人間の中で生じる、目的→行動→障害→葛藤・対立という一連の流れによって成り立つものですが、この流れの中の「人間の行動というものを表したものである」、とアリストテレスは説いたそうです。この流れを起承転結で作る劇が現在でも使われ、この手法を用いると感情同化、つまり俳優たちが演じている役に感情移入してしまうそうです。
 そこで、ドイツのブレヒトは非アリストテレス的劇作法により異化、つまり感情移入させないという手法を用いました。これは、俳優たちが演じている役に対して一人称だけでなく、三人称を使うというものだそうです。そのため観客は物語の流れのなかで、流されながら見るだけではなく、流れの上空から見ることの重要さを指摘し、そんな複数の位置からの見方を持つことが出来るようにということで、「複合的な見方 the complex seeing」という手法が生まれたそうです。
 SCSの『4.48 サイコシス』という作品は精神障害についての劇で、これをやった背景として、バブル崩壊後、自殺者の数が年間3万人と急増したにもかかわらず、マスコミなどがこの事実を取り上げなかったからだそうです。『アトミックサバイバー』という作品は原子力発電所についての劇で、これはチェルノブイリ原発事故や青森県六ヶ所村に出来た核燃料再処理工場の話などを取り入れながら、原発のことについてというものでした。また『エコノミック・ファンタスマゴリア』という作品は、「お金ってどこへ行くの? 投資でひと儲け? 大ヒット商品をつくるには? 自分を高く売る方法って??」というものを演劇で表現した市場経済についてのものでした。この3作品は観客に対して質問を投げかけるような作品で、阿部さんは、異化、第4の壁(俳優と観客の壁)をなくす、映像、シーンを短く、という4つの要素で劇場が思考の場となり全然考え方も違う関わりの無い人たちが集まる場として機能してくれれば、と考えているそうです。
 自分が今回一番印象に残ったのは、阿部さんが最後に言われた「演劇は絵画などのように作品として残らない。けれどもその時、その場にいないと味わえないものであるし、その分成功したときに、自分の中で何らかの変化が起こる。」という言葉です。何回か演劇は見たことがありますが、やはり劇場にいないと味わえない雰囲気や臨場感があると思います。ましてやSCSのような手法を用いたものだと、それらをより一層味わえるのではないかと感じました。
 今回のレクチャーで、今まで見てきた演劇とは全然違う演劇を知ることができ、非常に興味が沸いたので、今後はSCSのような作品なども機会があれば見に行きたいと思いました。

無題
西濱萌
 2008年11月28日(金)演出家、阿部初美さんを招いた「SCS(シリーズ・コンプレックス・シーイング)について」のレクチャーに参加しました。私は中学・高校の6年間ミュージカルをやっていて、「劇団四季」主催の歌やダンスのレッスンで舞台にも上がりました。なので、今回の安部さんのレクチャーはいろんな意味で勉強になりました。
 安部さんの「嘘の世界で出来るんなら、本当の世界でもなにか出来るんじゃないか。」という発言に対して少し鳥肌が立ちました。すごく的を射た発言で、とても簡潔で……それが私には、社会に対しても「一人一人が同じ目標に向かって努力をすればできないことはないのではないか。」と聞こえました。舞台を作っていく為には「まとまり」が一番大切だと思うからです。配布されたプリントでは太田省吾さんが「『可能性のフィールドとしての演劇』という視点から見てみますと、1909年から1999年までの日本の近現代にあって、それぞれの時代の演劇表現は、そこへの試みとして、一種の同列性をもつことになり、それによってはじめて歴史の意味をもちうるのではないでしょうか。」と、発言しています。
 劇の中には一つのストーリーを題材にするものが多いのでその中で個々に対しての一々説明はしないので、観客席では疑問を持ったとしても各々で自己完結するしか術がないのです。しかし、「アトミック・サバイバー」で題材にされた青森県六ケ所村の核燃料再処理施設に出てくる「原子力エネルギー」をイメージで自己完結して終わらせてはならないのです! 知識をまず説明する事の重要性。この行為はとても大切だと思いました。そして、その説明の仕方がとてもユニークな演出で、カメラとスクリーンを使って舞台上に作られた観客席からでは見えない異なった空間をうまく繋いでいること。「背景をスクリーンに映し出して状況を伝える」という演出の作品は何回も観たことがあるものの、「舞台上での演者そのものを映し出したり、ミニチュアの模型を使ってスクリーン上で臨場感を加えた」演出の作品は初めて観ました。舞台上でのカメラワークを上手に使った説明は演者が口だけで説明するよりもはるかに解りやすいと感じました。
 昔、「同性愛について」という題材の演劇を観に行った事があります。同性愛に対しての偏見に苦しむ人、同性愛を理解出来ない人、同性愛を理解出来る人。その舞台設定でもある人物を軸に、物語を構成するのではなく、「様々な人々の生の交錯する場」として、社会的な広がりを持たせる演出だったのを思い出しました。本当はどっちが正しいのかなんて人それぞれの意見があると思います。その様々な考えを持つ人が集まったひとつの空間の中で、一つの物事について各々が持つ考えを排除しないで、新たに「考える」という場所。その場所が大切でその場所=思考の場=劇場であると学びました。

シリーズ・コンプレックス・シーイングについて 阿部初美レクチャー(その2)

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 4, 2008 5:17 | TrackBack (0)

シリーズ・コンプレックス・シーイングについて 阿部初美レクチャー(その2)

演出家、阿部初美さんのレクチャーを聞いて   
秋元雅都
 私はこのレクチャーを聞くとき、「演出家」という普段接することのない方の話が聞ける貴重な機会だと思い参加しました。しかし、私が思っていた「演出家」、つまりドラマや映画のような物語を舞台上で展開するといった、いわゆる演劇を演出する人とは違うということを冒頭で聞きました。「シリーズ・コンプレックス・シーイング(SCS)」というとくに台本を作るということはなく、取材してきた内容をありのままに演じるというドキュメンタリー演劇を演出しているということでした。
 演劇史の話の中で、元々演劇とは、アリストテレスの提唱した「目的→行動→障害→葛藤・対立」という流れのなかで、その登場人物を自分に重ねる(感情同化)ことでカタルシス(浄化)を導くというものであるということを聞きました。これがいわゆる演劇で、その後に始まるブレヒトの非アリストテレス的劇作法、つまり感情同化を否定し違う角度からみさせる(異化)ことをカタルシスの目的とした演劇がSCSの元になっているということでした。私は最初、アリストテレスの同化による演劇が私の知る演劇でありその意味にも納得していました。しかし、それを否定したブレヒトの異化による演劇が生まれた背景には、ナチスドイツによる感情操作への否定があるという話を聞き、これにもまた納得させられました。
 実際に、SCSの「4.48 サイコシス」、「アトミック・サバイバー」、「エコノミック・ファンタスマゴリア」という3つの作品の一部を見させていただきました。
 最初の作品は精神障害をテーマとした作品なのですが、正直なところよく理解できなかったというのが感想でした。しかし、客にカーテンを開けてもらうことで終了するラストシーンから、余計なお世話かもしれないがそれによって救われる人もいるのでは?というメッセージを感じることはできました。この作品はとても過激な内容でしたが、それだけの現状がありその現状を知らないからこそ過激に感じるのだと思いました。
 2つ目の原発をテーマにした作品と3つ目の市場経済をテーマにした作品にも共通しているのが、私たちの知らない現状や普段深く考えることのない物事をありのままに見せているということです。それぞれの作品から、いかに自分が周りをみていないか、そして物事を考えるということができていないかということに気づかされ、考えさせられました。
 このような形態の演劇は賛否両論あるそうですが、私はこのSCSに関して、普段何気なく暮らしている人々にもう一度物事を考えさせるという点でとても意味があり価値のあるものだと感じました。今回のレクチャーを通して、感じたことを頭に置いて、もっと周りをみられるようになれたらと思いました。そして、分野をこえて見たり感じたりするということを建築に生かし、幅の広い考えを持ちたいと思いました。

演劇家 阿部初美さんのレクチャーを聞いて
杉田達紀
 今までの人生で劇というものに関わったことがほとんど無かった。あるとしたら小学生の時の演劇発表会ぐらいで、“壁にペンキを塗っている友達B”などの薄い役をするぐらいでした。
 なので今回の講義は正直初めは聞かないでもいいのではないかと考えていた。しかし、新しい発見があるかもしれないと思い講義を聴くことにしました。
 その予感は的中し、自分の思い浮かんでいる劇とは違う『劇』があった。それはドキュメンタリー演劇といい、台本が存在しなく、実際に体験者や現地の人に取材をし、即興で演じるというものだった。そこには、アリストテレスの目的→行動→障害→葛藤、対立という考えがあった。シェイクスピアのほとんどの作品もこの対立などを表しているらしい。そう考えると、現代のドラマもみんなこのあっちかこっちかの対立の考えがどこかしかに埋め込まれている。
 そして、悲劇の目的はカタルシスという浄化を引き起こすことのようで、感情を同化させるというものである。人間だれもが知らないうちにカタルシスを引き起こされてしまっているというのは、怖い反面、感情があるということなのでうれしい。
  阿部初美さんはシリーズ・コンプレックス・シーイングという物事を複合的に見るという演劇を手がけている。この劇は非アリストテレス的演劇作法といわれ、B・ブレヒトが考えたものである。その考えは、感情同化は危険であり、感情移入は怖いというものである。また、異化というキーワードがあり、俳優が役に感情移入しないで演じ、それを、自分を見失わないようにリラックスしながらダラダラ見てほしいというものである。
 普通の素人の考えだとダラダラ見ないで真剣に見てほしいと思ってしまう。
 そして、阿部さんはブレヒトの考えを元に、
1:異化
2:第4の壁をなくす
3:映像
4:シーンを短く
という4点を考えながら劇をつくっているのである。そして、思考の場が生まれてくるのであろう。
 『4.48 サイコシス』は、まず慎也先生がつくった舞台装置の全体が見えないところが残念だった。作品はとても怖い感じのものだった。あの迫力をダラダラ見るというのは少し無理な気がする。
 『アトミック・サバイバー』 原発の話で、コミカルに真剣なニュースを表すというもので、解りやすい解説を見ている感覚になった。
 『エコノミック・ファンタスマゴリア』 これは舞台の作り方がおもしろいと思う。どこからが舞台でどこまでが客席なのかが解らない。ぬいぐるみが出てきたりとユーモアを大事にしている作品である。
 今回新しい分野の演劇を見ることが出来てよかった。もしかしたら一生ふれることが無かった分野かもしれない。講義では映像としてしか見れなかったので、生で体験したいと思った。

演出家:阿部初美さんの講演を聞いて
山下浩介
 今まで私は数回演劇や、エンターテイメントとしてのショーを見てきました。最近では、演劇とは違いますが「ブルーマン」を見ました。様々な色や照明効果を用い、音だけでなく視覚的にも楽しめ、また実際にオーディエンスに舞台に参加してもらい、その場でエンターテイメントを作り出すという斬新な試みがありました。近年では、こういったオーディエンス参加型のショーが増え、会場を一体感に包み込めるという利点があります。しかし、今回の阿部初美さんの話では、オーディエンスが参加する作品はあるものの、また違った演劇独自の観点を知ることができたと思います。
 私は、訴えかけられ、自ら考えさせられる作品をあまり見たことがなかったので、シリーズ・コンプレックス・シーイング(SCS)はとても新鮮で演劇の深さを知りました。SCSはB・ブレヒトの「複合的にみる」シリーズとして、全てドキュメンタリー演劇となっており、vol.0『4.48 サイコシス』、vol.1『アトミック・サバイバー』、vol.2『エコノミック・ファンタスマゴリア』の三部で構成されています。テーマがそれぞれ、精神障害、原発、市場経済となっており、私自身とても難しく感じ、捉えにくいものでした。「サイコシス」はテイストがとても重く、のめり込んで見るという感覚はありませんでした。非アリストテレス的劇作法の異化に当てはまり、批評的に観ることで作品を捉え、作品が伝えたかったことを理解し、自ら考えさせられました。最後にオーディエンスが参加するシーンがありましたが、勇気がいることであり、とても重要な要素を持っていると思います。「アトミック・サバイバー」、「エコノミック・ファンタスマゴリア」の二作品はスクリーンと舞台による作品であり、映画と演劇が一緒になっていました。視覚的にも考えられた舞台のセット、映像と演劇の同化が見事でした。「エコノミック・ファンタスマゴリア」では舞台にもオーディエンスに上がってもらい、それぞれ見る場所によって作品の捉え方も変わってくるので、こういった方法(効果)もあるのだなと思いました。
 最後に阿部初美さんも仰っていましたが、演劇は年代・価値観がバラバラの人が作品を観て、共有します。しかし、人は感じ方がそれぞれ違い、隣の人の空気を感じとることも演劇を観るうえでの重要な要素の一つだと思います。佐藤慎也先生と阿部初美さんのように建築と演劇といったジャンルを超えた付き合いが、今後新たな発想を生み出すためにも更に必要となってくると思います。私も異ジャンルの人と交流を深め、自分を成長させていきたいです。

無題
古山幸太郎
 今回の講義では演出家の阿部初美さんのレクチャーとあって劇団の話がメインとなるテーマだった。最初は阿部さんの手がけた作品の紹介と劇(ドラマ)の歴史と解説で始まったが、映像を見る前に解説を聞いていなかったら映像を見た時点でそうとうの動揺があったと思う。私が見てきた劇は劇団四季など舞台がありそこで俳優が演じ、客席と舞台の間で演奏家が曲を演奏する最もポピュラーであると思うスタイルのものであった。しかし、今回拝見させてもらった劇では一見バラバラで話のつながりを見つけるのに必死になってしまった。説明を受けたうえで拝見したのでこのスタイルを踏まえたうえで見ることができ、また劇中に込められた意味を考えることができた。
 全部で三作品見せていただいたが、作品を見て初めてB. ブレヒトの掲げる非アリストテレス的劇作法というのが見えてきた気がした。今回の劇ではアドリブなどの縛りを緩くしているとおしゃっていたので、ブレヒトのやり方から少しアレンジがなされていると思われるが、一言に演劇と言っても様々な手法があり、演出家によっての表現の仕方など奥の深さを短時間で感じさせてもらうことができた。
 今回拝見させていただいた三作品の中で最も印象に残った作品は一作品目の「4.48 サイコシス」にはとてもひきつけられた。他の二作品はとてもポップな感じに仕上られていて見やすい作品だと感じたが、この作品は観客に訴える要素がとても多く、見ている側も受動的な立場だけでなく俳優達が演技を通して訴えている何かを感じ取り考えさせる作品となっていた。また、この作品はラストに観客に参加してもらう形をとっており、さらに観客が参加してカーテンを開くまで劇の終焉は訪れないという個人的にはとても特異でめずらしい形式にとても新鮮さを受けた。
 設計という仕事を建物やインテリアではなく演劇の舞台に取り入れるという事例は聞いたことがなかった。今回見学したサイコシスの映像では全てを見ることができなかったが小さな舞台の上でも建築家の設計を取り入れるこだわりとその完成度にはとても感心させられた。今回の講義の全体を通して設計に通じるものが多かったかはわからないが、芸術に対する意識の高さを感じることができた。

阿部初美さんの講義を終えて
藤井悠子
 今回の阿部さんの講義を受けて、『演劇』というものを知り、自分は演劇について何も知らなかったということに気づかされました。今まで演劇というものをあまり見たことがなく、見たとしても小さいときに見たあかずきんちゃんなど、有名な物語を劇にしたものを人が演じる、ただ単純にそれが演劇だと思っていたので、演劇がギリシャから始まったという歴史や、アリストテレスが論じた劇作法、それの対となるブレヒトが論じた非アリストテレス的劇作法があるということを始めて知ることができました。
 まずアリストテレスは、基本原理を模倣とし、理想像の模倣が悲劇的成立には必要不可欠と考え、ひとつの流れ(目的-行動-障害-葛藤・対立)に基づき、悲劇の目的を心情の浄化というカタルシスであり、感情同化によってカタルシスを引き起こす、つまり今のドラマのような流れ(起承転結)と同じであると阿部さんは言っていました。現代のドラマと同じといっても、どんなものなのか知りたかったので、阿部さんも講義中に紹介していた、シェークスピアのハムレットを見てみました。確かに、上で述べたような流れに沿っていて、今のドラマと同じような構成でした。このハムレットには、読む者の視点によって多様に解釈できるといわれているが、そのせいなのか、自ずと、この人はどういう意味を指してこんなことを言ったのか……などと気づかずに感情同化をしており、人間の実存的な葛藤が力強く表現されていて、大きな衝撃を受けました。
 これに対する、ブレヒトによる非アリストテレス的劇作法は、現実とは異なる表現を与え、非現実に一時的に意識を落とし込むことによって、感情移入をさせない方法(異化)である。このブレヒト理論に沿ってつくられ、それをドキュメンタリー演劇としたのが阿部初美さんの作品でした。講義では3つの映像を見せていただきましたが、どれも重く感じました。なにより自分が日本の現代社会について何も知らなかったこと、それをまさか演劇を通して知らされるとは思っていませんでした。Vol.0『4.48 サイコシス』では、精神障害という重い内容でしたが、一つの物語に構成されてはいなく、感情移入を避け、最後は観客にカーテンを開けてもらい、それが劇の終わりという、舞台と観客の壁を取り去っていて、一つの空間の中にいても舞台と観客が別になっているという観念が無くなりました。これに共通して、Vol.2の『エコノミック・ファンタスマゴリア』でも舞台の中に観客を入れてしまうことで第4の壁をなくすということには驚きました。
最後に阿部さんが言っていた、『劇場が異質なものと出会う場所となるのが目的』だと。一人一人が違う意見を持ち合うことは当たり前のことであって、それが一致するには無理があります。しかし、劇場では排除することをせず、違う意見を持ったもの同士が瞬間的に共存するという。この言葉によって演劇に対しての考え方が変わるきっかけとなりました。

演出家・安部さんの講演を聴いて
布施美那
 阿部さんはドキュメンタリー演劇の演出家です。ドキュメンタリー演劇には台本はなく、即興で演技をしていくものです。
 ドラマという言葉はギリシャ語の、行動するという意味の動詞、ドラーンを再現という意味でアリストテレスが名付けました。近代までのこの主なテーマは葛藤や対立でした。人は目的があって行動します。すると障害にぶつかります。そしてその障害に対して葛藤・対立します。演劇を観る観客はそれに感情移入していきます。これを感情同化と呼びます。
 それに対してB・ブレヒトは感情異化を訴えています。SCS、シリーズ・コンプレックス・シーイングはB・ブレヒトの理念に基づいています。B・ブレヒトはナチスの時代の科学者で、非アリストテレス的劇作法を提唱した人です。彼は、演劇が観客に感情移入を訴えること、感情同化を危険だと言います。感情異化は、俳優が台詞の中で、「私は、僕は……。」などの一人称を使った直後に「彼は、彼女は……。」と、二人称を混ぜて使います。これによって俳優が自分の役を客観視することになり、役に対しての感情移入をしなくなります。それによって観客も感情移入しないで観ることになります。これには演劇を批評的に観てもらいたい、コーヒーを飲みながら、タバコを吸いながら、リラックスして観てもらいたいという意図があるようです。このような説明の後に実際に阿部さんの作品を観ました。
Vol.0「4.48 サイコシス」
Vol.1「アトミック・サバイバー」
Vol.2「エコノミック・ファンタスマゴリア」
の3作品です。私は今まで何度か演劇を観たことはありましたが、ドキュメンタリー演劇というジャンルのものは初めてで、最初にどういうものかの説明がなければ、それがどんなものなのかわからなかったと思います。「4.48 サイコシス」は、精神障害をテーマにしたもので、私が実際にその演劇を劇場で観ていたとしたら、少し怖いという印象をこの劇に対して感じていたと思います。「アトミック・サバイバー」は原発がテーマで、これをやるにあたってはたくさんの障害があったようです。この作品には私は少し感情移入をしてしまったような気がします。もちろん、私自身はこの原発の話をあまり身近に感じることはなかったので客観的には観ていたとは思いますが。ただ、演劇に出てくるミニチュアでの説明や、原発事故の歌には少しクスッと笑えました。「エコノミック・ファンタスマゴリア」は市場経済をテーマにしたものです。ぬいぐるみが出てきたり、コミカルなシーンが織り交ぜられながらの作品でした。所々にこのぬいぐるみがでてくることによって感情異化して観ることができた気がします。
 このような作品では、観た後に、「すごかった」「楽しかった」などの一般的な作品における感想よりももっと長くて、一人一人が本当に考えてくれるという特徴があります。
 一つ一つシーンを短く、起承転結をなくしたり、シーンを織り交ぜたり、感情を異化することによって劇場が思考の場となります。これが目的なのです。

無題
伊澤享
 演劇にはいくつかの種類があり、役を客観的に見て感情移入しない「非アリストテレス的劇作法があることや、台本がなく見てきたこと経験から組み立て、即興で演劇にする「ドキュメンタリー演劇」などがあることがわかり、とても新鮮でためになりました。
 しかし、その中でも心に残ったのは授業の中で見た演劇です。それは、いままで見てきたものとはまるで違う演劇でした。
 とても生々しく、人間の本能に語りかけてくるように深く、荒々しかったです。
 「vol. 2 アトミック・サバイバー」は私達が知ることが出来ない、例えば原発の廃液を海に平気で流してしまっている現状と事故が起きてもそれを公表せず隠している原発側などを知ることが出来、素直に驚き、それとともに怒りを覚えました。
 ここまで、心を動かす演劇は見たことありませんでしたし、触れる機会もありませんでした。
 自分の知らない世界を少しでも知る良い機会であったと同時に、とても興味をそそられました。このような機会を与えてくださってありがとうございました。

11月29日の阿部初美さんのレクチャーを聞いて
薄葉唯
 今回の阿部初美さんのレクチャーを受けるまでは、正直あまり演劇というものに関わりがなく、劇場では素晴らしいとは思いつつも、「ただ感動した。」というような感想しか持てませんでした。今回、SCS(シリーズ・コンプレックス・シーイング)というシリーズがあることを始めて知りました。最初のレクチャーで、「SCSは台本がなく、取材をして、その取材を基に話を進めていく、ドキュメンタリー演劇と言われるものである。」と説明を受け、初めてそのような演劇があることを知りました。
 また、今まで、何も意識せずに、共感してきたドラマ、映画には、アリストテレスが提唱した「目的→行動→障害→葛藤・対立」といったサイクルのなかで、観客は登場人物と感情同化し、カタルシス(浄化)されるといった作法を基に作られていたということに、お話を聞き、初めて気づかされました。そして、それに相反する、B・ブレヒトが提唱した「非アリストテレス的劇作法」という作法に驚きました。感情同化は危険であり、感情が先走ると、思考がストップしてしまので、絶対に感情移入させず、批判的に観て欲しいという考え方には、ナチスの異常さを身近で感じていた人だからこその考え方だと思いました。私は元々、観客が泣くことが半分強制であるかのようなストーリはあまり好きじゃなく、むしろ一歩引いて観てしまうところがあるので、このB・ブレヒトの作法は衝撃的でした。しかし、俳優にも感情移入をさせずに、一人称と三人称が混ざっているとは、どういうことなのか、演劇として成立するのかと疑問に思いましたが、映像を観させていただき、一部でしたが、理解できたように思います。
 Vol.0~2の題材はどれも重く、難しく、賛否両論分かれるような事柄で、取材も大変だったと思いますが、この演劇を生の劇場で観ていた方たちも大変だったのではないかと思いました。阿部初美さんの「思考の場としての劇場」の言葉の通り、一部しか観ていない私でも考えさせられたので、劇場で観ていた方たちは相当頭を使ったのではないかと思いました。また、この感情ではなく、考えた結果の自分たちの意見ではなく、考えるということ自体を共有するという考え方に大変興味を持ちました。私もぜひSCSの次回作を劇場で共有してみたいと思いました。

シリーズ・コンプレックス・シーイング 「複合的に見る」 とは
森田有貴
 人は目的があるから行動し、行動するとそこには障害が生まれ、心の中に葛藤が生じる。
 阿部さんのレクチャーの中でこのようなお話がありました。これは近代の劇の軸となっており、様々な劇を生み出し、観客の感情同化を促してきました。
 B・ブレヒトは感情同化を危険とし、異化という方法を取り入れました。それまで、劇やドラマなどに感情移入することは観客にとっても、俳優にとっても良いことだと思っていた私にとって、衝撃的でした。
 シリーズ・コンプレックス・シーイングの劇の実際の映像を見て、さらに驚きました。私が想像していた劇とは全く違い、一人称と三人称が混ざり、言葉に聞き入ってしまうが、決して感情移入することはできませんでした。
 調査したことをそのまま劇とすることは、現代が抱えている問題を直に受け止められる方法だと感じました。ただ感情移入して見て、「感動した」と感想を述べるのではなく、問題に対して考えるきっかけにもなります。
 vol.0では孤独な人々がさまよい、物語になっていない芝居が続いていました。光カフェという場所に精神障害者たちが集まり、最後は観客に任せるという劇は初めて観ました。何が正解で、何が不正解で、という答えのない劇のようにも見えますが、必ずといっていいほど、この劇を観た観客は現代社会に対して不安や不満を感じ、自分の意見を持つのだろうと感じました。
 阿部さんは、「演劇というジャンルに囚われず、拡がっていきたい」とおっしゃっていましたが、このことは今後、どのような業界にも必要になる考えではないかと思いました。拡がっていくことで、自分自身の考えだけではなく、他人の考えも改めることができ、より影響力の強いものが作り出せるのではないでしょうか。「関わりのない人」と壁を作るのではなく、価値観や年代、性別が違っても、得るものはあるのだと積極的に関わっていく事が求められます。
 阿部さんのレクチャーを聞き、もっと視野を広げ、いろいろなものを観て、感じて、自分の中に取り込んでいきたいと感じました。

舞台芸術 阿部初美さんの講演
岡崎隆太
 演劇の本当の意味を大切にしている阿部さんの演劇に対する熱い姿勢が講義を聞いてとても伝わってきました。始めに、何のために?誰のために?演劇をし、伝えるのか。演劇の根本たるものがなんなのかを教えていただいた気がします。何を伝えてどうしたいのか、そしてその方法としてどうしたらいいのか。何をするにも共通して重要なことであるけれどもそれは見失いがちになってしまうことだなと感じました。自分が何かしらのことをやっていたときに、やっていた理由を探してしまうことが最近多くてとても共感、というか思うことがたくさんあった気がします。それは特に、体で表現する分野は感じることだろうと思います。今まで演劇を生で見たことが数えるぐらいしかなく、演劇のことはよく知りませんでした。イメージとしては、きれいに役を演じて豪華な演出で非日常的なストーリーが展開していくという感じに思っていました。しかし、講義で見せていただいた阿部さんの劇では、そのイメージとは違ってよりリアルでダイレクトに伝わってくるように感じました。自分の中で劇に対する価値観が少し変わった気がします。シリーズ・コンプレックス・シーイングの4.48 サイコシスは観客を参加させることによって終わるという形式がとても斬新で、また扱っているテーマが難しいだけに、劇を通して感じることや解釈も簡単にはできなかったと思います。断片的にしか見ていませんが、意味がハチャメチャで何をしているのかなと、一瞬混乱したけれどそれが精神障害のリアルなところでそれが直球で伝わってきた気がします。
 劇の始まりに、本当の自分の話をする場面はより役者の気持ちが伝わってきて面白かったです。リアルな気持ちをそのまま観客にぶつけているのがわかりました。劇という作られるものにそうではないリアルな感情を乗っけて本当に伝えたいことを強調させている気がしました。いろんな手法で劇を構成することでもそれは感じられるし、そこには『痛みを伝えるだけでなく緩和するためのユーモア』もあって劇の楽しさ・素晴らしさをより体感するのかなと思いました。
 最後の方におっしゃっていた、ジャンルに縛られていてはいけない、その言葉にとても共感しました。自分もとても感じることで、それは根底にある本質をぼかしてしまう要因だと思います。違う表現方法であれ、伝えたいことが同じならばそれは認め合えるし、それが違くても新たな視点が考えられるような気もします。
 今回の講義では演劇の深さを少しでも知れて、何より表現することの意味を考えさせられた気がします。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 4, 2008 5:17 | TrackBack (0)