例えば日本語を壊すとすると

三浦基さんの演出による『三人姉妹』を見た.原作はアントン・チェーホフの有名な作品.それは見事に壊れた日本語で演じられていた.簡単に言うと,完成した日本語を壊れた発声により演じることで,日本語を壊している.後は劇評をリンクするのみ.詳しくはそちらを読んでほしい(劇評はいずれも初演のもの).
現代演劇なんか見たことない人,普通の劇場にしか行ったことがない人.そんな人こそ行ってみてください.きっと楽しめると思います.
  劇評1  劇評2

日本の正確な表現

ヴッパタール舞踊団の新作『天地 TENCHI』彩の国さいたま芸術劇場)を見た.
ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団の公演は,1996年の『船と共に』以来,来日の度に見ている.最も好きなダンスカンパニーと言っても過言ではない.なぜ好きなのか? それは,ピナの舞台にはあらゆるものが含まれているからである.もちろん,洗練された肉体表現としてのダンスがある.言葉がある.英語もあるし,日本語もある.(ダンサーたち自らが,片言の日本語でセリフを話す!)音楽がある.歌もある.巨大な舞台装置がつくられる.(2002年の『緑の大地』日本公演では,装置の構造計算を岡田章さんがやっていた(笑).)水も砂も土も火も草も花も使われる.演劇のようでもある.コントのようですらある.そして,なんと言ってもユーモアがある.とにかく,コンテンポラリーダンスというジャンルだけで呼ぶべきではない何かがある.むしろ,そのダンスの能力を持っているが故に,後は何をやってもよいという自由さがある.
今回の『天地』は,日本をテーマに制作された最新作である.昨年日本で上演された『過去と現在と未来の子どもたちのために』は,2002年に制作された,その時点での最新作だった.それは,それまでの作品と比べると,圧倒的にソロの多い作品だった.個人的には,ヴッパタールの魅力はアンサンブルにあると思っていたので,ソロはやや退屈で,わずかなアンサンブルが印象的だった.そして,今回の『天地』では,全くといってよいほどアンサンブルがなかった.ほとんどが小さなエピソードをパッチワークしたような,徹底的に断片的な作品であった.それは,『過去と……』のように,最近の作品の傾向であるのかもしれないが,もしかすると,日本をテーマにした結果であるかもしれない.かつてのピナの作品には,もう少し構築的なところがあった.例えば,多くの作品が二部構成となっているのだが,1部に登場した動きやシチュエーションが,形を変えて2部に反復されて現れることで,作品が重層化していく.しかし,今回は反復すら行わない.ひたすら断片化されたコントが続く.しかも,そのことが決定的なのは,クライマックス(と呼んでよいのかすらわからない)である.ある意味ではアンサンブルなのだが,このようなものだった.1人が舞台中央で短く激しく踊ると,次の1人が中央に走り込んでくる.そうすると,先に踊っていた1人は舞台袖へ走り去っていく.そして,次に現れた1人がまた舞台中央で短く激しく踊り,更に次の1人と入れ替わる.それが繰り返されて,最後まで続き,閉幕.つまり,2人以上が同時に舞台上に現れることはなく,それどころか,それが激しいスピードを持って繰り返されるために,通常のアンサンブルを強烈に拒否しているようにすら見える.
片言の日本語で繰り返される,ゲイシャ,フジサン,サムライなどは,さすがに辟易するところでもある.しかし,『ロスト・イン・トランスレーション』(見ていないが)同様に,海外の持つ日本のイメージとしては,正直な表現であるのだろう.しかし,この超スピードの慌ただしい孤独なアンサンブルもまた,日本を表現したものだとするならば,現在の状況を正確に現すことにピナは成功しているように思える.

コミュニケーション志向的時代におけるダンス

Noism04の『SHIKAKU』( りゅーとぴあ)を見た.Noism04は,ネザーランド・ダンス・シアター?に所属していた金森穣が,りゅーとぴあ舞踊部門の芸術監督に就任し,今年4月から活動を開始したカンパニー.専属ダンサーたちとともに,金森自身も新潟に在住している.『SHIKAKU』は,その活動第1作で,もちろん新作である.実際に僕が見たのは,本番と同じ劇場で行われたシミュレーション公演で,本公演は6月8,9日,その後,パークタワーホールで東京公演(6月16〜20日)が行われる.なぜ初日まで2週間以上もあるのに,通常は行われないシミュレーション公演が行われたのか?
あまり詳しいことを書くと,実際にダンスを見る人の楽しみを奪うので書かないが,おもしろい仕掛けが劇場で待っていることは事実である.新潟へ向かう新幹線の車中,「ファウスト」での東浩紀の連載を読んでいた.今回は舞城王太郎の『九十九十九』論だった.そこで東は,《メディアの役割が,特定のメッセージを伝えること(物語志向型)からコミュニケーションの場への参与を保証すること(コミュニケーション志向型)へ変わ》り,『九十九十九』が《コミュニケーション志向的な時代において物語をひとつに限定することはいかに可能か,というテーマに直接に接続されている》と書く.『SHIKAKU』もまた,コミュニケーション志向的な時代における,新しいダンスの試みであると思う.

これから更に作品の完成度は上がることだろう.本公演を見る機会があれば,その時にでも詳しいことを書きたいと思う.東京公演は追加公演も発売されている.興味のある人は,ぜひ見てほしい.

2つのベケット

サミュエル・ベケットの芝居を続けて2つ見た.1つは『あしおと』(下北沢「劇」小劇場).もう1つは『ゴドーを待ちながら』(あがたの森文化会館講堂).『あしおと』は,僕の高校からの友人である長島確の翻訳,同じく僕の友人である阿部初美さんの演出.『ゴドー』は,串田和美演出,串田,緒形拳の出演.ベケットの処女戯曲である『ゴドー』と,晩年の作である「あしおと」は,書かれた時期もあって作品が大きく異なるだけでなく,その演出もまた対照的であった.
『ゴドー』は,ウラジミール役の串田と,エストラゴン役の緒形(そして,ポッツォ役のあさひ7オユキ)のやり取りが,ベケットのテクスト(翻訳は安藤信也と高橋康也)に寄り添いながらも,時として(と言うよりも全般的に)お笑いコントの様相を呈する.もちろん,観客は大いに沸くし,網走刑務所での公演が好評であったことも納得できる.
それに対し『あしおと』は,日本語による上演に対する正確な翻訳への,確と阿部さんの徹底した意志が感じられた.ベケットのテクストを正確に上演することにより,初めて手に入れることができる本当の不条理さを,もしくは,不条理という言葉に短絡させるべきではない何かを手に入れることを目指した試みであった.
ベケットのテクストは一読すると不条理のように思えるが,実際に精読していくと,細部に渡り徹底して論理的に書き上げられていると,確は言っていた.少なくとも『あしおと』に関してはそうであるらしい.処女戯曲であった『ゴドー』が,どの程度緻密に書かれたものであるかは分からない.串田『ゴドー』は,ここで繰り広げられる不条理な会話を,普段どこででも行っている日常的な会話はこんなもんじゃない? と言わんばかりの雰囲気で演出を行う.それはそれで,主演の2人に負うところが大きいにしても,娯楽作として成立している.しかし,もし『あしおと』のように,ベケットが論理的に組み立てた(であろう)テクストとしての『ゴドー』を,日本語による正確な上演を行うとするならば,どのような『ゴドー』が立ち上がるのか,非常に興味深い.

ちなみに,串田『ゴドー』は,僕の見た松本公演がNHKで放送される予定.串田は,最近完成した「まつもと市民芸術館」の館長.設計者である伊東豊雄さんも,同じ時に芝居を見に来ていた.一方,長島・阿部ベケットは,来年の1月に新作を上演予定.