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岸井大輔レクチャー

2012年12月20日(木)、第7回ゼミナールとして、劇作家の岸井大輔によるレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

小井智矢
 劇場外演劇をつくる上で、岸井さんは「まちから創る」「まちへの入り口を創る」「まちを創る」ということを考えているそうです。演劇はたったひとりでは成立させることができず、演劇と集団とは切っても切れない関係にあるといえます。演劇を成立させる上で、人が集まることが必要であり、人が集まるということはそこにひとつのユニットが生まれることである。このユニットが建築ではまちといえる。演劇をつくることで、集団を生み出す。それは、まちを創ることともいえる。この考えが、岸井さんの「まちを創る」という考えなのではないかと感じました。
 岸井さんは、劇場がなくても演劇は出来る。専用の機器や場所がなくとも、人が集まれば演劇は行える。また、演劇といえば、言葉(セリフ)や時間(尺)などの制約があるイメージではあるが、必ずしもそうではない。自由であっていい。という考えがあります。これは、設定、演劇をする人、セリフなどに必ずこうでなければならないというものはないということです。だから、岸井さんのつくる劇は、劇場外という自由な場所で行われる。また、場所が自由なだけではなく、演じる人も演じているといった感覚を相手に与えない自然体であり、観客として参加するはずの第3者も演者側になっている。その例として、POTALIVEやTAble(としまアートステーション構想)といった岸井さんの演劇がある。
 POTALIVEでは、あと1カ月で取り壊しになるマンションに住む住人にインタビューするという企画でツアーを行ったそうです。これは、ツアーだということだけ聞かされ住人が演者であることを客に伏せることで、客は住人と自然に、「今の心境は?」といった会話が行われる。この日常で当たり前のような会話もまた、岸井さんからすれば演劇のひとつである。例えば、この現場には住人と訪問者の二人しかいなかったとする。そして、その部屋をカメラで録画しているとする。こう考えれば、この二人の会話は画面の中で演技をする二人という風に捉えることが出来る。また、これが舞台上の出来事だとすれば、ツアーの客は劇としては演者側になり、客が本当の住人だと勘違いして住人の今の心境を聞くといったことは、「劇中の住人と訪問者との会話」という劇のワンシーンとなる。こうした、「起きることすべてが演劇」であるかのような考えが岸井さんの劇の特徴であり、劇は自由であるといえることなのだと感じました。
 ただ、今回のレクチャーを聴いていて、「人はみな、人と接する時に嘘をつくなどの演技をしている部分がある。だから、どんな出来事も人がいれば演劇に繋げられる。」といったことを岸井さんがおっしゃっていて、確かにその通りだと思いました。しかし、常に「観客のいない演劇」をつくろうとしているようにも感じました。そして、観客のいない演劇は演劇といえるのか、演劇として成り立つといえるのかが疑問でした。最後の方に岸井さんが、「鑑賞者のいない演劇を今まではつくろうとしていたが、やっぱり、演者も客も互いに鑑賞をしているから、劇と鑑賞は切っても切れない」という言葉を聞いて、自分にはやっぱり客のいない演劇は成り立たないのではないだろうかと感じました。客がいるから演者が演じているということを捉えてもらえる。嘘をつくのも自分自身を客観的に見て演技をしているとわかるから、演者として成り立つのではないだろうかと思いました。このレクチャーで、日常の自然な会話といった劇ではないものを劇であるとするという考えにすごく興味がわき、実際に劇場外演劇を見てみたいと感じました。

小林幸弘
自分は高校で演劇部に所属していたので、劇作家の方のお話が聞けると知ってとても興味が湧きました。しかし、岸井大輔さんがして下さったお話の内容は、自分が想像していたものとは全く違った内容でした。自分の中にある演劇の定義は、照明機器や音響機器などの舞台装置が設置されている屋内で、役者が台本にそった演技を観客に披露するというようなものです。このような固定概念が強く、うまく岸井先生のお話を聞くことが出来ず、解釈も曖昧になってしまったような気がします。動画を撮影して映画のようにするでもなく、一般に言うような屋外演劇のそれとも違った新しい演劇を知る機会になりました。自分の解釈では、岸井先生が新しく設けた演劇の定義は、一般の演劇の拡大解釈のように感じられました。
演劇の歴史や成り立ちの説明から始まり、岸井先生の考える演劇の定義や、これまでどういった活動をしてきたかなどのお話を聞きました。舞台として設定した街に毎日少しずつ時間を延ばして通って演技をしてみたり、相手(観客)に演劇だと伝えないで演技をしたり、挙句の果てには流木で作った船を山の上まで運ぶというようなものまであった。比較的共感できる点もあれば共感できないような内容もあり、一般の形式に則った形で演劇をしていた自分にとっては、とても考えさせられるような内容の講義でした。
講義の内容で、自分が一番気になったのは「ポタライブ」です。岸井先生が作り出したポタライブは、劇の舞台となる街の近所を案内人が観客と一緒に移動して、道中で行われている役者のパフォーマンスを見ながら散歩をするというような内容です。サイクリング用語で気ままな散歩という意味の「ポタリング」と、実演という意味の「ライブ」を掛け合わせた造語で、とても意外性があり、面白く、革新的であると感じました。普通の演劇と違い、役者のパフォーマンスを楽しめるだけでなく、題材とされる街や場所の歴史を知ったり、普段の雰囲気を感じることが出来るという点が、ポタライブの大きなメリットだと思います。デメリットとしては天候に左右される点、観客の数に大きな制限が掛かる点、近所の雰囲気を感じ取り脚本を作成するまでに手間がかかる点など様々な問題点があると思います。しかし、3ヶ月毎に引越しを繰り返して演劇を続けるという行為は、並々ならぬ努力だと思います。
講義後、インターネットで岸井先生や、先生の演劇について調べてみたところ、やはり観客の方の楽しみ方もそれぞれ違って、一緒に歩く相手(観客)が毎回違うから、季節や一般の人の見え方が毎回違うからなど様々な感想がありました。演劇の新しい形式を作り出すのはとても大変なことだと思いますが、岸井先生が講義の序盤に仰っていたように、元々演劇は人が集まって出来たものなので、岸井先生の演劇も同じ考えの人々が集まってより良いものに進化していくと思います。

田島麻衣
私が一番初めに岸井さんに感じた印象は、とても気さくな人だなと思いました。初対面の私たちに、さりげなく話しかけたりして嬉しく思いました。ですが、人見知りだと聞いたときは驚きました。それは、岸井さんが街の人々と話をして上手くなったと聞き、やはり、街の人とのコミュニケーションは大事だということが分かりました。私は、岸井大輔さんのことは、知りませんでした。ですが、元々演劇に興味があり、岸井さんには演劇作家ということでお話が聞けて嬉しかったです。
としまアートステーション構想とは、豊島区民をはじめ、アーティスト、NPO、学生など多様な人々が、区内各地域の様々な場所で自主的・自発的にまちなか環境にある地域資源活用したアート活動の展開を可能にする「環境システムの構築」と「コミュニティ形式の促進」を目的としています。
この中で、岸井大輔さんは、豊島区の街並みを見ることでした。この街歩きのテーマは“TAble”です。この意味は、「としま(T)に潜在する可能性 (Able)が形をなす」という言葉の組み合わせからつくられた言葉です。そして、豊島区の中での“境(さかい)”を皆さんと一緒に見ていく行事があります。これは、豊島区の中での“境(さかい)”を見て歩く行事ですが、区との“境(さかい)”なのに歩けなかったり、入れなかったりする場所があるそうです。そして、この行事は歩いて見るだけでなく、その地域の人に“たずねる”こともするそうです。
この行事は豊島区の区界を半年かけて歩き回り、調べていくそうです。そして、調べ集まったものは、見たい人に見られるようにしてくれるということで、機会があれば見に行きたいと思いました。
私は、岸井さんの話を聞いて、興味をもったので岸井さんのことを調べてみました。その中で、“『世界の演出』のための試論”というのがありました。この中に4つの題材があります。少し紹介すると、
《1つめは「集団には、好みの問題もある。集団は美の問題でもある。」
2つめは「劇団についての審美的な判断は、演劇が扱ってきた。」
3つめは「アウトライン1 芸術以外の諸ジャンルとの関係」
4つめは「アウトライン2 俳優・観客・戯曲・劇作家・演出」
以上全体を語る言語を蓄積し、演劇ジャンルの拡張を創りだしたい。世界の演出プロジェクト1年目にして考えるわれわれの目標である。》
このように世界に進出するという目標をもっていて、1つの目標が達成したら、また次の目標をたてる、ということに感動しました。岸井さんは劇作家なのですが、私の考えていた劇作家とは違い、とてもアクティビティを感じました。劇は劇でも屋内ではなく、外の一部を舞台として考える劇もあるのだと分かりました。私は、“建築と芸術”という関係に興味があります。今後、今回の岸井さんのお話を参考にして、この関係について学んでいきたいと思います。貴重なお話、ありがとうございました。

清水孝一
岸井大輔さんは新たな演劇の形を生み出す劇作家である。演劇に対して自分なりの考えを持ち、新しいが日常により密接した演劇を行おうと模索しているように思い、興味深かった。
まず、演劇とは何なのか。フィールドがあり、スペースがあって初めて演劇を行う場が整う。例えると都市があり、劇場がある状態である。また演劇には、複数の人が必要である。一人では行えず、演劇を行う主体者と鑑賞者がいなければならない。岸井さんの考える演劇は主体者も鑑賞者も演じていると考えている。お互いが「見る、見られる」の関係になっており、鑑賞者の反応も演劇に影響を与えている。その演劇に対しての考えが岸井さん独自の演劇を生み出している。この考えを聞いて、演劇は一方的に見るものではなく、人と人の向き合いが行われ、それを行う場として、劇場が存在するのだと理解を改めた。
一般的に演劇というものは、都市にある劇場で行うものだと考えられやすい。しかし、岸井さんは都市の代わりになるもの、劇場の代わりになるもの、演劇の代わりになるものをつくろうとしている。岸井さんが演劇を行う目的は演劇が成功したという結果ではなく、演劇を行う過程や演劇という行為自体である。要するにそれによって、人と人の交流を生み出したいのである。まちのあらゆる場所が劇場の代わりとなり、演劇が行われる。日常の中に演劇を紛れ込ませ、自然なかたちで取り込んでいる。これは演劇の主体者と鑑賞者が近づいて交流が生まれやすく、劇場で行う演劇よりもより演劇らしいといえるのではないかと感じた。
岸井さんは東北地方太平洋沖地震の影響を受けて、阪神淡路大震災後の海の漂着物で船を造り、それを持ち、山に登るという演劇を行っていた。その船を見た人は自然に阪神淡路大震災の話をしてくれるという。そういう状況をつくることを目的としてこの演劇は考えられた。話をしてくれる人は演劇に無意識で関わることができ、より自然で自由な演劇になる。時にはハプニングが起きたりして、演じる主体者も予想できないことが多い。それが唯一の演劇とさせ、新たな人と人との関係性を生み出し、劇場では起こりえない可能性が秘められていると感じた。
建築と演劇、特に岸井さんの考える演劇は共通する部分があると思った。建築が演劇でいう演じる主体者とするならば、建築がきっかけや影響を与えて、鑑賞者である人々が反応する。建築にも岸井さんの考えるような自然に人々に何かきっかけを与えて、行動を起こさせる仕組みは取り入れるべきだと感じた。これからは人が建築に対して受け身にならず、密接して向き合っていけるような建築を考えていけたらよいと思う。

松森みな美
 岸井大輔さんのしている劇作家という名前から、劇をつくるひとというイメージが湧きますが、確かにそうなのですが、それだけではありませんでした。演劇というものに対してどんな捉え方をしているか、によってその言葉の定義や印象はだいぶ変わります。ほとんどの人が想像するであろう演劇というものは、劇場があり、そこで観客は客席に座り劇を鑑賞する、ことかもしれません。しかし、現代ではそのプロトタイプと呼べるような演劇からは逸脱し、鑑賞者が受動だけにとどまらないようなものに大きく変化し始めています。
 岸井さんが仕掛けたPOTALIVEというものの一つを例にあげると、取り壊しが決定された70年代に建てられた三鷹のとある団地を、取り壊し前日に巡るというものがあります。その団地は住民たちの手により様々に手が加えられ長い時間をかけて住みこなされてきたものです。(バス停に面する壁に穴があけられていたりなど)なにも知らない観客は、駅で集合して岸井さんの案内でその団地を巡ります。途中、住民に扮した役者の様々な話を聞き、最後の最後にその団地が実は明日から取り壊されることを観客は知ります。その瞬間に、今まで見てきた生活の断片だと思ったものが、団地の住民だと思ったものが全て虚構だったことに気づきます。私は演劇には詳しくないけれど、この三鷹の団地を巡るという行為は、最後のこの瞬間で初めて演劇になったと感じました。もう一つ例をあげると、街に三ヶ月間だけ滞在するというプロジェクトがあります。街の特色によってそのプロジェクトの内容は大きく変わりますが、例えば千葉県の船橋という街は、駅周辺の住民にアンケートをとると「10年以内に引っ越すつもり」という人が8割もいます。そのような一時的なベッドタウンとしてしか捉えられていないという問題を抱える船橋という場所に、ふるさとを見つけようというのがテーマでした。その具体的な内容とは、住民がいつも通るような駅ビルの一つのスペースを借りて、そこでずっとオープンな生活を続けることでした。オープンというのは、コタツでくつろいでいたり、ご飯を食べたり、歯を磨いたりを全て通行人に見える状態で行うというようなものです。演劇だと銘打ってはいるものの、そこを通る人は始めこそ警戒したり不思議に思うかもしれませんが、いつでもその人がそこにいるという共通認識が住民の中に生まれ、徐々に仲良くなっていきます。しかし、それも三ヶ月間だけです。三ヶ月が経つと、そのスペースからは一切のものが跡形も無くなります。その瞬間、あれは本当に演劇の一つだったのかと住民たちは思うのでしょう。知らず知らずの間に鑑賞を強いられた観客たちは不意に演劇が終わったことに気づいてしまいます。
 このように、岸井さんの手がける演劇というのは鑑賞者を劇の中に巻き込んだ演劇です。こういった活動を知ると劇作家というものが、戯曲家のことではなくイベントの仕掛人だったということが分かります。幼い頃に遊んだおままごとや人形劇が自分の原点であるという岸井さんは劇場で行われる演劇に対し違和感があると言います。コントロールできる空間で美しいものを見ることもいいけれど、それは批評性を奪うことになるのではないかと。
 一見ワークショップのようでもある、この観客協力型・参加型演劇ですが、成果物を求めるワークショップとは大きく異なります。演劇の定義に対し必要なものは集団と鑑賞だという岸井さんの定義に加えて、最後に観客を突き放し、自分が一切の責任を背負いながら道化になることが一番演劇らしいと私は感じました。劇を俯瞰して操るような戯曲家から大きく逸脱した現代の劇作家は、むしろ、自らがみんなに希望を与えたいと行動を起こす、情に溢れた役者という印象を受けました。
 講義のはじまりに、岸井さんは下の様な図を用いて、「僕がしていることは、このCの部分に当てはまることなんです。」と解説していました。講義が終わったあと、このCに入るものが何かを私なりに考えてみました。村がどんどん大きくなり都市に、それが更に肥大化した、様々な情報が飽和してしまった今の世の中、Aに当てはまるのは状況という言葉がふさわしいような気がします。多様化し、カテゴライズできないものばかりが求める断片Bに差し込んでいくCという希望、それこそが岸井さんの探している現代の演劇なのかもしれないと感じました。
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ゼミナール | Posted by satohshinya at December 28, 2012 6:17 | TrackBack (0)