「アートの日」展

コマンドNから展覧会の案内です.
明日1日のみ,『湯島もみじ』内のコマンドNにて展覧会を開催.『Thank you @RTの日』(通称:39ART)参加企画とのこと.

Pina Baush

『ネフェス』Nefes(呼気)
ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団(Tanztheater Wuppertal)による,2003年にイスタンブールで制作された作品.

遠藤利克

遠藤利克展「空洞説」/VOIDNESS
《6年振りにSCAI THE BATHHOUSEでの個展を開催.鉄や木を使用した,空間を埋め尽くすかのような巨大彫刻を中心に,すべて新作で構成されます.》

近代美術におけるキュレーションによる妙

「痕跡 戦後美術における身体と思考」(東京国立近代美術館)を見た.ほとんど期待せずに見に行ったのだが,なかなかの好企画.「痕跡としての美術」をテーマに国内外60人による120点が,表面,行為,身体,物質,破壊,転写,時間,思考の8つのセクションに分けて展示されている.展示の最初に断り書きがあるとおり,そのセクションの分類は厳密なものではなく,どのセクションに分類されてもおかしくないもの.それに伴い展示構成も,順路らしきものがあるようだが,こちらもやはり明解には分割されていない.近美の企画展示室はあまり好きではなかったが,やはりテーマに沿ってしっかりとキュレーションされた展示は見応えがある.しかも1点ごとに解説が付されている力の入れようで(カタログにも掲載されている),閉館1時間前から見始めたのだが,もう少し時間が必要なほどの濃い内容であった.もちろん50年代から70年代後半の作品によって構成されているため,いわゆる(コンテンポラリーアートではないという意味で)近代美術(絵画)がほとんどで,インスタレーションのように空間を作品化したものではなく,この天井高の低い展示室でも十分に対応できている.むしろ仮設壁によるルーズな分割は,久しぶりに良質な近代美術館の企画展示室を見たように思う.ホワイトキューブが全盛となる前は,どの美術館もこんな感じだった.
更によかったのは,作品の半数以上が日本の公立美術館より集めていること.海外のコレクションをそのまま持ち込む展示は多いが,これだけ丁寧に作品を集め,あまり実物を見たことのない作品も多く展示されており,その意味でも,これらの時代の美術を知るにはよい企画.

同時代の作家

阿部和重氏が『グランド・フィナーレ』芥川賞を獲った.毎回「文藝春秋」では芥川賞受賞作が全文掲載されているのだが,金原ひとみ氏,綿矢りさ氏が受賞した時には増刷を重ねて120万部近く売れていて,それに気をよくしたのか今回の受賞作掲載号では阿部氏のほぼ全身写真入りの全面広告が「朝日新聞」に掲載されていた.笑った.それはともかく,阿部氏とは生まれた年が同じであることもあって,同世代の作家として注目してきた.
受賞作である『グランド・フィナーレ』をまだ読んでいない.同じ神町という場所を舞台とした長編『シンセミア』をまだ読んでいないので,それの後に読もうと思っている.ちなみに,これら神町を舞台とした作品を「神町フォークロア」と呼ぶらしい.というわけで,芥川賞の話題.
阿部氏はようやく芥川賞を受賞したわけだが,本当に今更ながらという気がしている.『シンセミア』を書いた後の受賞なんて,中上健次氏に例えると,『枯木灘』を書いた後に『千年の愉楽』のどれかでようやく受賞するようなもの.そう考えると,中上氏は『岬』で受賞したわけだから,阿部氏も『シンセミア』より前の『ニッポニアニッポン』辺りで本当は受賞すべきだったのかもしれない.などというのは,ほとんど意味のない例え話.
阿部作品の中では,個人的には短編集『無情の世界』がお薦め.『ニッポニアニッポン』もまあまあ.『インディヴィジュアル・プロジェクション』は,読む前に少し期待が大きすぎたためにあまりよい印象がないのだが,阿部氏の代表作.文庫解説は東浩紀氏が書いている.ちなみに,こちらは東氏との鼎談.
芥川賞の話に戻す.芥川賞受賞といっても,1年間の内に上半期と下半期があって,1半期で2人受賞する可能性もあるため,1年で最大4人の受賞者,10年だと40人の受賞者が出る可能性がある.結構な量だ.例えば,この10年(1995〜2004年)で芥川賞を受賞した人たち.
保坂和志,又吉栄喜,川上弘美,辻仁成,柳美里,目取真俊,花村萬月,藤沢周,平野啓一郎,玄月,藤野千夜,町田康,松浦寿輝,青来有一,堀江敏幸,玄侑宗久,長嶋有,吉田修一,大道珠貴,吉村萬壱,金原ひとみ,綿矢りさ,モブ・ノリオ,阿部和重の24氏.この中で読んだことがあるのは柳,平野,阿部の3氏くらい.もう既に馴染みのない名前もある.
次の10年(1985〜1994年)はこんな感じ.
米谷ふみ子,村田喜代子,池澤夏樹,三浦清宏,新井満,南木佳士,李良枝,大岡玲,瀧澤美恵子,辻原登,小川洋子,辺見庸,荻野アンナ,松村栄子,藤原智美,多和田葉子,吉目木晴彦,奥泉光,室井光広,笙野頼子の20氏.池澤,大岡の2氏くらいしか読んだことがない.
更に次の10年(1975〜1984年).
三木卓,野呂邦暢,森敦,日野啓三,阪田寛夫,林京子,中上健次,岡松和夫,村上龍,三田誠広,池田満寿夫,宮本輝,高城修三,高橋揆一郎,高橋三千綱,重兼芳子,青野聰,森禮子,尾辻克彦,吉行理恵,加藤幸子,唐十郎,笠原淳,高樹のぶ子,木崎さと子の25氏.ここまで来ると大御所も混ざってくるが,読んだことがあるのは日野,中上,村上,宮本,尾辻の5氏くらい.
今回の阿部氏受賞に際して,審査員からは「村上春樹や島田雅彦に受賞させなかった失敗を繰り返さない」というような理由で受賞を決めたとかなんとかいう話があった.どうでもよい話だが,確かに村上春樹氏も島田雅彦氏も,ついでに高橋源一郎氏も受賞していない.これだけの数の受賞者がいながら,この3人は受賞できなかった.
村上春樹氏は2回候補になった.1979年上『風の歌を聴け』と1980年上『1973年のピンボール』
島田雅彦氏は,自ら「朝日新聞」の文芸月評で阿部氏受賞の話題に触れて未練がましいことを書いていたが,6回も候補になっている.1983年上『優しいサヨクのための嬉遊曲』,1983年下『亡命旅行者は叫び呟く』,1984年上『夢遊王国のための音楽』,1985年上『僕は模造人間』,1986年上『ドンナ・アンナ』,1986年下『未確認尾行物体』.確かにどれで受賞してもおかしくないような作品ばかり.
高橋源一郎氏に至っては,候補にもなっていない.
ちなみに阿部氏は過去3回候補になり,4回目で受賞.候補作は1994年上『アメリカの夜』,1997年下『トライアングルズ』,2001年上『ニッポニアニッポン』.
おまけに中上氏も4回目で受賞.候補は1973年上『十九歳の地図』,1974年下『鳩どもの家』,1975年上『浄徳寺ツアー』,1975年下『岬』で受賞.
要するに,これを機会に同時代の作家によるこれらの作品をぜひ読んでほしいということ.

おたくの原風景

先日ヴェネチアに行ったが,その1週間後にヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が始まった.今回の日本館のテーマは「おたく:人格=空間=都市」.コミッショナーは森川嘉一郎氏『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』の著者として知られる建築の研究者である.今回の展示は,「波状言論」05号,06号に,森川氏自身により詳細に紹介されており,大変に期待していたが,残念ながらタイミングが合わずに実際に見ることはできなかった.
展示の内容については,公式ホームページに詳しくあるので,ここには書かないが,その構成は細部に亘ってていねいに考えられており,森川氏のコンセプトを読む限りは,非常に興味深い展示になるはずだった.しかし,現時点ではあまりよい評判を聞くことはなく,むしろ展示部門の金獅子賞を受賞したSANAAの『金沢21世紀美術館』の話題が大きく取り上げられている.
過去3回のビエンナーレ日本館は,磯崎新氏をコミッショナーを務めており,1996年は阪神・淡路大震災から「亀裂」をテーマにして,宮本佳明氏が瓦礫を持ち込み,宮本隆司氏が写真を展示した.その際に石山修武氏も展示を行っており,森川氏は石山研の学生として関わっていたらしい.2000年には「少女都市」をテーマにして,できやよい氏の作品や妹島和世氏の展示構成,2002年には「漢字文化圏における建築言語の生成」をテーマに岡崎乾二郎氏の展示構成によって開催されてきた.「亀裂」では「金獅子賞」を受賞しているが,個人的には「漢字」が,岡崎氏の作品の延長として興味深いものであったのだが,残念ながらあまり話題にはならなかった.今回の「おたく」も,そのような末路を辿りそうな気がする.
そのカタログ『OTAKU』(幻冬舎)が輸入版として発売されたので読んでみた.これには,展示の核の1つである海洋堂のオリジナルフィギュア(新横浜ありなという美少女フィギュア)までオマケに付いている本格的なものだった.ここで書こうと思ったことは,実はビエンナーレ自身のことではなく,カタログの最初に掲載されている1枚の写真についてだった.
カタログの最初に(もちろん展示の最初にも)おたく空間を説明するために,宮崎勤被告の部屋の写真が使われている.1つの驚きは,このおたく空間が世に知られた最初のイメージが,彼の部屋であったという事実に気が付かされたことだった.よく考えてみると,当時おたくと呼べるような友人も何人かいたが,彼らの部屋を見たことがあるわけでもなかった.しかし,おたくの部屋はこのようなものだとイメージを持っていたことが,実は宮崎被告の部屋(おそらく,当時のニュースなどで繰り返し流されていたのだろうと思う)に端を発していたことに気付かされた.
もう1つの驚きというか,これは心配でもあるのだが,もちろんこのカタログにはイタリア語訳と英訳が付けられており,その写真キャプションの英訳には,「The room of TSUTOMU MIYAZAKI」と書かれ,その註釈として,参加作家の1人である斎藤環氏による「おたくのセクシュアリティ」という文章中に,「TSUTOMU MIYAZAKI for the serial murders of young girls」と書かれている.しかし,「young girls」だけでは,あの犯罪の特異なニュアンスは伝わらないだろう.宮崎被告が犯罪者として国際的にどのくらい知名度があるのか知らないが,おたくではない人たちにとっては,その背景を詳細に知る日本人と,そうではない海外の人たちの,おたく空間の原風景とも呼べるこの写真から受け取る印象は大きく異なるだろう.これは冗談だが,展示場所がヴェネチアだけに,このMIYAZAKIの部屋が,HAYAO MIYAZAKI氏の部屋と勘違いされないことを期待する.

相対的

「MUMI クリテリオム61 嵯峨篤」を見た.確かに展示室の壁を磨き上げた今回の作品には,一種異様な迫力がある.しかし,少し残念なところもあった.
今回は展示室の壁面そのものを磨いた『cube on white』とともに,SCAIでの展示作品が大型化された『MUMI』6点が展示されている.『MUMI』は,MDFにウレタン塗装とアクリルラッカーを磨いたもので,ちょっと何でできているのかわからない美しい作品だ(そして,何が描かれているかもわかりにくい).つまり,ここでの表面磨きの順番は,一般の展示室壁面を併せて考えると,
 MUMI > cube on white > 一般の展示室
となる.しかし,今回のクリテリオムの展示室には,
 MUMI > cube on white
の2つの関係しか存在していない.本来であれば,
 cube on white > 一般の展示室
という関係が,大変に大きな差の「>」であることがポイントになる.しかし,その比較対象物である普通の壁が,同時に視角に入ることがなく,しかも近接していないため,この『cube on white』という作品がどのくらい異常であるかがうまく理解できない.もう1度外に出て,廊下の壁面と比較することで,ようやくその異常さに気が付く.それどころか,より完璧な『MUMI』が展示されていることにより,
 MUMI > cube on white
の「>」が大きな差と感じられるため,
 cube on white > 一般の展示室
の「>」がそれほど大きな差ではないように思えてしまう.それが少し残念だった.更に残念なことに,写真ではほとんどその作品が理解できない.本当にバカバカしいほどの労力による,鬼気迫るインスタレーションである.

Mトレ@湯島もみじ

中村政人さんから連絡です.
下記の予定で「湯島もみじのMトレ2005/01」を行います.参加希望者の方はこちらまで連絡願います.どなたでも参加可能です.

[湯島もみじのMトレ2005/01]
場所:文京区湯島
作業期日:1月16日(日)〜20日(木)
時間:9時〜18時
作業内容:壁,天井制作など
条件:昼食付き.作業着持参.
半日,一日だけ参加できる人でもOKです.

湯島もみじについてはこちらをご覧ください.ダイアリーで過去の施工状況も見ることができます.
その他,「JA」53号「Renovation Forum」に取り上げられています.

三浦基・田原桂一・marcel duchamp・fluxus

『雌鶏の中のナイフ』
青年団リンク・地点の第9回公演.三浦基氏による演出.関連エントリはこちら

「田原桂一 光の彫刻」
ガラスや石灰岩やアルミや布の上に印画した写真作品を展示.

「マルセル・デュシャンと20世紀美術 芸術が裸になった,その後で」
『彼女の独身者たちによる花嫁,さえも(大ガラス)』東京ヴァージョンも展示.

「フルクサス展 芸術から日常へ 」
これほど集められることもほとんどないと思う.まあ,アートの勉強だと思って…….

クァクァ

quaqua.gif

明けましておめでとうございます.
舞台の美術をやります.ぜひ見に来てください.
作品情報はこちら.上演はこちら.関連エントリはこちら

クァクァとは何かそれは声それは息それはことばしかも異語どんなかベケット・ライブvol.6

ベケット・ライブとはどんなだったかvol.12345つねに声の問題ことばの問題日本語の問題翻訳の問題ベケットのテキスト日本語による肉声化いったいどんなかからだをとおしてたえず挑戦

ベケット・ライブvol.3以降つづいた後期の戯曲きびしい制約今回は趣向をかえる思い切るあいかわらず声の問題ことばの問題いたって真剣でももっと広くもっと自由もっと暴走初心に戻る読むことから始める他人の書いたもと外国語どこまでいくか

今回はクァクァどんなか小説『事の次第』ひどくマイナーほとんど知られず読まれずそんな作品へのベケット・ライブからの回答オマージュちょっと参照「どんなだったかおれ引用するピム以前ピムと一緒ピム以後どんなか三部構成おれ言うそれ聞こえるとおり」舞台上でどうなるかスリーポイントお贈りするベケット・ライブvol.6クァクァ
(テキスト:長島確)

ものとしての小説

舞城王太郎氏の『熊の場所』のノベルズが発売された.これは,ノベルズ出身の舞城氏が,初めて文芸雑誌に発表した同名短編を収めた第1短編集.以前はハードカバーの単行本で出ていたもののノベルズ化.ハードカバーといっても,実際にはふかふかしたソフトなカバーを使用した凝った装丁で,デザインは講談社の舞城本をすべて手掛けているVeia.
続くように,舞城氏の処女作である『煙か土か食い物』の文庫が発売された.これは,以前はノベルズで出ていたものの文庫化.そもそも,単行本がノベルズ化されるというのは珍しい気がするが,どうもここには,単行本>ノベルズ>文庫というヒエラルキーがあるようだ.となると,将来『熊の場所』は更に文庫化されのだろうか? それはともかく,話のポイントは中身について.中身といっても,これらの小説が印刷されたページ自体のデザインについての話.
ノベルズ版の『熊の場所』には3つの短編が収められているのだが,実は,それぞれ使用しているフォントの種類とポイント,段組がすべて違っている.もちろん,単行本版で使われていたのは1種類だけ.通常の単行本のつくり方だった.このアイディアは,そもそも「ファウスト」で始まったもの.すべての作品は,それに相応しいフォントや段組を必要とすべきであるということから,1つの雑誌に,作品毎に異なるフォントや段組が選択されている.もちろん,In Design(今はCreative Suite)使用によるDTP技術の発達が背景にある.そして,芥川賞を取り損ねた『好き好き大好き超愛してる.』の単行本では,異なるフォント,段組どころか,使用している紙までが作品によって異なっていた.作品を読ませるに当たって,ものとしての小説が持っている空気をつくり出すためのデザインが行われているように思う.
実際に,それらのデザインによって作品の印象がどれくらい変わるかは,読み比べたわけではないのでわからないが,何れにしても,『熊の場所』ノベルズ版は,単行本版より更に進化した完成版である.

アートそのものが疑われてる

先を越された感があるが,横浜トリエンナーレ2005のディレクター交代問題.このタイトルは,磯崎新氏が,辞任発表4日前に行われたシンポジウムの席上で発言したものとのこと.このシンポジウムは,web上でもさまざまに取り上げられているが,その後の経過も含めて,やはりここに注目.
しかしここでは,「朝日新聞」12月16日の夕刊の大西若人氏による記事が,シンポジウムの状況を整理してくれていることから,大幅な引用となってしまうが紹介する.
磯崎氏の当初のプランは,《「従来の国別展示でも,キュレーターの指名制でもなく,最もまともに美術展を支えている組織」を前面に出す新システムで,国際展の枠組みを再構築する試み》を目指したもの.これに対し,南条史生氏が《「若い作家を選んで,国際舞台に出す」という国際展の機能が果たされない,と指摘.磯崎氏が「そのキュレーターの思い上がりが困りもの」と切り返すと,南条氏も「アーティストのためにやるのではないのか」と反発する場面も》あったり,北川フラム氏は《「そもそも建物の中でやるのが間違っている.横浜市が市民のためにやるなら,町づくりの実績を表に出す『都市展』しか意味がない」と語った》り,岡部あおみ氏が《「小都市でも国際展が開かれるのは,特徴を持つことでグローバリゼーションへのアンチとなるから」と話したが,磯崎氏は「ローカリズムを主張する国際展が多数あるのが,もうグローバリズムの枠内」と異論を呈した》りしたようだ.結局,《ショック療法的な磯崎案だが,「アートは国境を越えるだけでなく,国という単位に依存しない点で,21世紀に大きな力を持つはず.それには,ただ見せるだけの展覧会ではいけない」との指摘は,傾聴に値する》とのこと.磯崎氏がディレクターを務めることから,大変に期待をしていたのだが,これもまた氏がお得意とするアンビルトになったようだ.
新しい国際展の1つの例として,9月に開催された「光州ビエンナーレ2004」での試みが挙げられる.「artscape」の村田真氏のレビューより.《今回のユニークな試みは「観客参加」だ.これは農民や学生,主婦など一般人や美術以外の専門家,社会活動家らの「観客」を事務局が選び,アーティストとコラボレーションしてもらおうという企画.》この企画自体は大変に興味深い.しかし,《これはうまくいけばアーティストにとっても「観客」にとってもメリットがありそうだが,「お見合い」に失敗したりケンカ分かれする可能性もあり,効果はあまり期待できない.大半の作品は「観客参加」によってどこがどう変わったのか,または変わらなかったのかまったくわからないのだ.》結果はともかく,このような試みは更に続いてほしい.まあ,こんな国際展ですら,財団や観客とのコラボレーションが要請されているということか.