「1984年」の「言語」と「思考」

ジョージ・オーエル(Gorge Orwell)の代表作「1984年(1984)」(新庄哲夫訳/ハヤカワ文庫)を読む。

生活の全てが監視される全体主義社会の中で話が繰り広げられる。
色々な切り口で楽しめる内容でした。
特に興味深かったのは「思考」と「言語」の関係を描いている点。

「独裁者(=偉大な兄弟)」は自分達の独裁支配を延命させるために
様々な方法で国民を支配しようとする。
その中で、もっとも恐るべきかつ完璧な方法が「ニュースピーク(new speak)」
と呼ばれる統一言語の導入。
書き言葉、話し言葉を含めた<全ての言葉>を単純化、合理化し
単語数を圧倒的に減らしていく。
これによって人間の<思想範囲>は縮小され、
最終的には思想犯罪(自由や革命を求める思考)自体をも
不可能にしてしまうというもの。

なぜ、「思考」と「言語」の関係に興味を持ったかと言うと
外国で仕事をしている僕にとって「作る行為(思考)」と「言語」の関係は
常に目の前をちらついている問題だからです。

例えば、建築の設計における<空間>と<空間>の境界の話。
<空間>と<空間>の「曖昧」な<境界設定>は、
中間的な・言い切らない日本語の「言語表現」によって複数の人に共有され、
その<設定>によって設計を進めていく事が可能となる。
一方で、言い切ることで成り立っている英語やフランス語などの言語では
「曖昧であること」は、「決定していないこと」と等しい。
つまり、「曖昧である」という<設定>自体が<設定>として成立しないこととなります。

同僚とのデザインの話をしていても、
僕は「自分の把握できる日本語」という<フレーム>の中でしか思考できないし、
その<フレーム>の中でしか英語やフランス語の表現を行うことが出来ない。
つまり、僕の「日本語の能力」自体が、僕の全ての表現を決定しているという事実。
(外国語自体、そんなに話せないことをこっそりと告白しておきますが。)

哲学者・ヴィトゲンシュタインの名言、「世界が私の世界であるということは、
私が理解する唯一の言語の限界が私の限界をいみすることに示されている。」

「1984年(1984)」は、この言葉を肌身に感じさせ、僕の思考を
少し整理してくれた本でした。

| Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 11 9, 2004 7:32 | TrackBack (0)

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