L’hopital Copgnac-Jay

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伊東豊雄さん設計、L’hopital Copgnac-Jayのオープンハウスに行く。
現場管理を行っていた高塚さんに地下階、一階、基準階をご案内いただいた。

巴里15区の一区画がその敷地。 中庭形式でその区画を囲うのではなく、
周辺に点在する隣地の庭を繋ぐように庭が配置されている。 
機能はがん治療、終末医療、自閉症の子供用施設の三つ。
街路に平衡しながら庭を挟むように薄い建物が配置され、
中庭に面して3つのボリュームがそれにへばりつく。

高塚さんが「借景しあう庭」と呼ぶ、敷地内を貫通する庭と
隣地の庭が作る視覚的な「大きな都市の森」は非常に上手く融合されていた。
これが敷地周辺の環境向上にかなり役立っている。
このように隣地の要素を操作対象としてとり込む計画は、
東京のように常に変化するアジアの都市では短期間しか継続しない。
まさに、強く、安定した町並みを持つ巴里/欧州ならではの計画といえるだろう。
8年に一度、隣接する家が建て替わる東京の住宅地で同じことをやっている
日本人建築家は、環境変化による空間の破綻をどう受け止め、どのように責任を取るのであろうか。

内部を歩いた印象は非常に日本的な空間であるということ。 
原因は窓の設定高さ。立った姿勢の視点やや上部から膝の少し上までと
非常に低く窓が切ってあって、目線が自然と下方に向き、庭を眺めることになる。
それはつまり、庭=季節を内部空間の構成要素として取り込むことを意味する。
庭は連続的でありながらも様々な性格の庭が用意してあるので、
各病室もそれによって色付きが異なっているのだろうと想像した。

最近考えている「予想できる素晴しい空間」と「予想できない新しい空間」の違いを見た気がする。 
現在ある技術、システム、素材を再編集、再構成して作る空間は予想が出来る素晴しい空間を作る可能性を秘める。
 しかし、どうなるか分からない、何が起こるかわからないが、
検討し、実験して生み出される予想できない空間というのもある。
僕が求めるのは明らかに「新しい空間」だと再確認した見学会であった。

最後に、高塚さんありがとうございました。

Architecture Space / 建築, Event Lecture / イベント, News / 新着情報, Paris / パリ, Urbanism_City / 都市 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 10 29, 2006 8:01


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Comments

お久しぶりです。パリには2度行きましたが、2度とも会えずに残念でした。オルレアンの展示にぜひ行くことができればと思っていますが、あまり期待しないでください。
さて、ようやく伊東さんの病院が完成したのですね。

>8年に一度、隣接する家が建て替わる東京の住宅地で同じことをやっている
>日本人建築家は、環境変化による空間の破綻をどう受け止め、どのように責任を取るのであろうか。

これは難しい問題ですね。建築家の責任だけとも思えない。
8年(?)に一度、隣接する家が建て替わる代わりに、
その家そのものも30年くらいで建て替わる。
そうして借景のいたちごっこを続けていくこともあり得るかもしれない。
少なくとも、隣接する家との関係への責任を放棄することで、
あらゆる住宅が内向する状況が健全だとは思えません。

先日、ケ・ブランリーにも行きました。
いずれその話題までブログでも行き着く予定ですが、
セーヌ川に面するあのような場所でさえ、
あんなランドスケープを成立させることができるのかと恐ろしくなりました。
sugawara君の言うように、

>強く、安定した町並みを持つ巴里/欧州

でさえあのような計画が実現し、そんな場所だからこそ、
極端に言えばこれから数百年はあの状態が維持されるのかと思うと、
不思議な気分になりました。
もちろん、あそこは暴力的ではありながらも庭であるから、
環境向上に基本的には貢献しているのでしょうが、
道路を挟んだ隣地との関係はやっぱりすごいですよね。

>最近考えている「予想できる素晴しい空間」と「予想できない新しい空間」の違いを見た気がする。 

まあ、この言葉でこの話題を考えてみると、
ヨーロッパにおける借景は「予想できる素晴しい空間」で、
東京における借景、もしくは隣地との関係を取り結ぶことは、
「予想できない新しい空間」を生み出す可能性を持つのではないかと思います。
ぼく自身はどちらを求めるということはなくて、
状況によって何れをも選択できるようにしていたいと思ってます。

Posted by satohshinya at 2006年11月03日 07:38