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GR DIGITAL 試し撮り

実は渋谷川の水源でもある新宿御苑

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四月から北京で働くこともあり、持ち物を整理していたら、インテルマックがクラシックサポートをしない理由とかで、OS9bootマシンが値上がり。売っぱらって、それを元手にGR DIGITALをゲト。

何がいいって、この抜けのいい表現力に惚れた。かつ、物としても好き。いやぁ、買いでしょう。写真はフォトショップでウェブ用にリサイズしてます。

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遺構, 趣味, gadget | Posted by at March 29, 2006 21:06 | Comments (8)

タグの効用

タグの性質はエントリーの概要を示すことにあります。示すという意味ではカテゴリーも同じですが、情報を整理するスタンスが違います。
カテゴリーは、従来的な整理の手段といえます。Movable Typeのマニュアルに、「エントリーが追跡できるので、運用管理に役立ちます。たとえば、特定のカテゴリーに属するエントリーを一覧表示したり、エントリーをカテゴリー別に分類してアーカイブしたりできます」とあることからも、情報を整理する棚を設定し、そこにコンテンツを詰め込んでいくといった、体系的(ヒエラルキー的)な意味合いが強いものとなっています。重量を持つ情報を扱う、図書館やブックストアの本棚の整理に近いとも言えます。
一方で、タグは重量を持たない情報のために発想された、整理のための手段(の一つ)と言えます。この手段の着想点は、必要とする情報、拡張してくれる情報への「たどり着きやすさ」にあると思います。
大きな効用としては、検索技術の進化に伴い、閲覧数の多さや更新の頻度など、ある強度をもった情報に到達しやすくなったと言えます。しかし、あくまでも単純化された方程式に基づいた結果にすぎないとも指摘できます。タグは執筆者の意志によって強調された単語となるので、タグをたよりにした適切な情報への「たどり着きやすさ」へ近づくと想像できます。
僕が感じる個人レベルの効用としては、(エントリーのタイトルが持つ質に近い)意志を持ったキーワード、すなわちタグを使うことで、エントリーの概要を顕在化できることにあると思います。関連していなかったキーワードが同居していたりすると、あれっ?! 楽しいと思うのです。これは、後付けのタグだからなせるわざと言えます。また、フラットな関係性でしかないタグ同士をどう関連づけるのか・人によって違う文字の揺れをどうマネジメントしていくのか・タグをたよりにした検索によってどのような実感が得られるようなものにするのか。など大きな余地が残されているので、今後に期待したいところです。
さいごに。到達のしやすさの実現によって閲覧者が増えると、うれしいリアクションが増えたりすることがあるかも。このツールがもたらす恩恵はまだまだありそうと予感しております。この予感は、初めて見たときのかっこよいと感じた第一印象から変わっていません。

参照:jkondoの日記 - 興味の対価 うれしい実感の顕在化を真剣に考えている。

blog | Posted by at March 21, 2006 23:40

逆スイッチ2

逆switchのまねっこで、初めはシンクパッドにしようかと思っていたが、なんとなく惹かれず、久しぶりにウィン機をどれどれとさわりまくる。で、結局バイオ。0.7ミリのアルミ引き抜き材が手になじむ。閉じるときのロックがなくスッキリ。マックブックに負けじとカメラも内蔵。マックと比べるとやっぱり刺激的な感じでなく、おさまりのいい体裁といったデザイン。さわりすぎて、買って数時間で挙動が怪しくなり、いきなり初期化。勉強になった。

日記 | Posted by at March 20, 2006 1:51 | Comments (2)

葱や 平吉

写真は葱焼き 一皮むいてつるっと白いネギを味噌に漬けて食べる つくね葱鍋などうまい
渋谷のハンズ近く 繁華街からひとつ奥にある感じ 引き込まれる

日記 | Posted by at March 15, 2006 23:30

空間を超えたい

空間が問題を示唆するきっかけとなったり
空間によって目指していた統合される瞬間にたどり着くことができたり
長い時間をかけて立ち向かう力を与え続けてくれる理想とする空間があったり
空間によって新しい地平の断片がたち現れてきたとされている。
しかし、その集積によって出来ている都市には何が残されているのだろうか?
メタ(都市もしくは郊外)とベタ(空間の使い手)のつじつまがあわないまま、すでにある空間に対する反動をたよりに空間を生み落とす、という危険な循環に埋没しているように思う。(どこに感じるかは整理したいと思う)
空間における擬慢性ばかりが目につくようになってきたのではないか。だから、超える指標を必要としている。という仮説を強化できる理論と実践を進めていきたいと強く思った。
様式を信仰していた19世紀の次に、空間を追い続けてきた20世紀があったという、リファレンスすべき歴史があるという慎也さんの指摘いただきます。

日記 | Posted by at March 11, 2006 4:09 | Comments (2)