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繊細と思っていたが実はテキトーだった

西島大介の『凹村戦争』(早川書房)を読んだ.《二人のウエルズ氏に.》と献辞にあるように,『宇宙戦争』を書いたH.G.ウエルズと,それを元にラジオドラマをつくったオーソン・ウエルズ(だから,凹村→おうそん),その他にもジョン・カーペンター,『プリズナーNo.6』,『2001年宇宙の旅』だとか,ネタが散りばめられている.まあ,それだけが本題ではなく,東浩紀の帯文に端的に示されているように,「きみとぼく」に「メタとネタと萌え」というもの.しかし,マンガ自体は期待していたほどではなかった.
なぜ期待していたかというと,西島のイラストレーターとしての仕事に興味を持っていたから.『定本物語消費論』大塚英志の文庫版の表紙と中表紙や,『網状言論F改』東浩紀編の表紙をぜひ見てほしい.特に繊細な淡い色使いに注目したい.その意味では,『凹村戦争』は白黒だから…….しかし,期待していたポイントが違っただけで,全編に流れる(西島のホームページにもそういった雰囲気があるけど)「テキトー」感は気持ちよいです.

| Posted by satohshinya at April 29, 2004 8:13 | TrackBack (0)

素材の良さ

デビッド・シルヴィアンのライブを見た.「Fire in The Forest Tour 2004」の日本公演.弟のスティーヴ・ジャンセンと高木正勝の3人しか出演しないシンプルな構成.正確に書くと,高木はVJなので,演奏は兄弟2人だけ.おまけに『ブレミッシュ』からの曲がほとんどで,黙々とライブは進んでいく.ライブ自体は,もう少し過去の曲もやってくれればいいのにという感想はあるが,それよりも何よりも高木の映像が素晴らしかった.
高木正勝を最初に見たのは,東京都現代美術館での「MOTアニュアル2003 おだやかな日々」で,アニエス・ベーのためにつくった『world is so beautiful』だった.どのようにつくられているのかはわからないが,美しく画像が処理されたビデオインスタレーションだった.その時は,現代美術の展示でよくあるように延々とビデオ作品が流されていただけで,十分に時間を割くことができず,チラリとしか見ることができなかった.しかし,かなり強い印象を持っていたので,DVDで販売されたときにすぐに買った.結局,高木の作品は,映写される空間性が重要なわけではなく,自宅のテレビで見たって十分楽しめた.
つまり,動き,編集といった映像そのものに力がある.それどころか,その1カットを取り出して,高木自身のライブのフライヤーに使ったりするのだが,これがまた1枚の絵として気持ちよい.そういった画像処理の質もまた持ち合わせている.
今回のライブで使われた映像は,『world is so beautiful』の延長として,子どもたちの映像が多く使われている.その1部は,新作としてDVDが発売されるらしい.そして,『World Citizen』では,アンコールであったこともあって,おそらく『world is so beautiful』や新作用の,ほとんど画像処理をしていない生のデジタルビデオ映像を編集したものが使われた.子どもたちが楽しそうに走り回っている映像が繋ぎ合わされた映像だった.これを見て思ったのだが,画像処理をしていなくとも,生の素材を編集しただけでも十分に高木の作品となっていた.画像処理の質の高さだけでなく,この生の素材の良さが,高木が他の映像作家から抜きん出ている理由だと思う.
高木の作品はホームページでも少しだけ見ることができる.ネット上の粗い画面でも十分に魅力的な作品を見れば,僕が書いたことが少しはわかるのではないだろうか?

美術 | Posted by satohshinya at April 29, 2004 6:46 | TrackBack (0)

目の前にある構造

以前,佐藤光彦さんの『梅ヶ丘の住宅』を見たときのこと.何も知らずに,真ん中にある螺旋階段を上り下りしていたところ,ふと手に触れている階段室の曲面の壁が,固い金属でできていることに気が付いた.「もしかすると,これは構造体ですか?」と,光彦さんに訊ねたところ,「そうだよ」との答.16ミリ(だったと思う)の鉄板を曲面にし,平面中央に設置することで水平力を受け持ち,最低限の断面による鉄骨が外周部を取り囲み,その軽快な構造体により鉛直力を受け持つ.構造は池田昌弘さん.構造計画としては非常にモダンな回答.
この住宅も,みかんぐみ『上原の家』のように,1,2階はほとんどが壁に囲まれているため,もっと断面の大きい柱を壁の中に忍び込ませることも可能である.しかし,地下では光を落とすハイサイドライトが隣地を除く三方を囲んでいるが,最低限の鉛直力を持つだけの構造体は,その開口部をほとんど妨げることがない.結果的に,構造のあり方をそのまま意匠が表現している.
構造体はどのような建物にも明確に存在するが,それを可能な限り意識させないように表現するという考え方がある.例えば,構造体を可能な限り最小の断面とすることで,存在感の小さなものとする方法は代表的なものである.しかし,この住宅では,目の前に見えていながらも,それが別の用途(ここでは螺旋階段の手摺)として存在しているため,構造体とは気が付きにくいという方法を取っている.

建築 | Posted by satohshinya at April 27, 2004 8:06 | TrackBack (0)

構造の遍在

建築の構造体が遍在しているのは当たり前のことである.柱や梁,壁は,建築空間の中にいれば,至る所に存在していることがわかる.例えば壁構造の建築であれば,目の前にある壁の全てが構造体であろう.もし構造体が偏在しているのであれば,おそらくアクロバティックな構造形式を取らなければならない.
みかんぐみ設計の『上原の家』を見た.構造はArup Japanの金田充弘さん.この住宅でも構造体は遍在している.ただし,本棚という姿に変えて.その本棚は,自らを構造体であると主張することなく,そのそぶりを見せずにあちらこちらにあるため,構造体ではないだとうという錯覚を起こす.
モダニズム建築においてル・コルビュジエは,列柱に支えられる床と,構造的な役目を持たない壁を分離した.所謂,「自由な立面」.その究極的な住宅がミース・ファン・デル・ローエの『ファンスワース邸』で,8本の柱に支えられているため,全ての外壁がガラスとなっている.その意味では『上原の家』も,「住宅特集」4月号や「建築文化」4月号で紹介されている建て方の写真を見ればわかるように,列柱状の本棚のみが構造体になっているため,本棚以外をガラス張りにすることだってできる.しかし,そうなってはいない.むしろ,この住宅は壁に囲まれている.
その代わりに,ここでは工業製品による薄い壁が実現されている.外部も内部も一律に工業的に仕上げられた,美しい既製品が選ばれている.ジョイント部分も工業化の恩恵を受けているため,室内にいると,飛行機や新幹線の内部にいるかのような感覚を受ける.この感覚は,今までの建築にはなかった質を実現している.
一方で,『上原の家』を視覚だけから見ると,どのようなことが考えられるだろうか? この住宅はガラス張りではないわけだから,壁を構造体として使用することもできるはずである.同様な仕上げを内外部に用い,その隙間に柱を入れればよい.意匠的に壁の薄さを強調している部分もないため,壁が厚くなることは問題とならないだろう.そうすれば,わざわざ本棚が遍在する必要もない.しかし,当たり前の話だが,建築は視覚だけで体感するものではない,ということを考えさせられた.

建築 | Posted by satohshinya at April 24, 2004 9:47 | TrackBack (0)

バランスのよい複雑さ

イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(脇功訳,筑摩書房)を読んだ.最近,河出文庫で『柔かい月』『見えない都市』『宿命の交わる城』が続けて刊行されたため,これを機にまとめて読んでいる.
カルヴィーノの個人的な思い出としては,1989年にニューヨークへ行ったとき,クーパーユニオンだかコロンビア大だかの近所の建築系書店で,『見えない都市』が平積みになっていたことを思い出す.『見えない都市』が書かれたのは1976年であるが,80年代最後のNYの建築界は,ポストモダニズムからデコンストラクティビズムへの移行時期で,そんな時代の雰囲気にこの小説が合っていたのかもしれない.(ちなみに,ここでのポストモダンは狭義の意味で,古今東西の引用によるコラージュ的デザインを指す.デコンも狭義の意味で,ロシア構成主義的デザインを指す.もちろん,デコンは広義のポストモダンに含まれる.)マルコ・ポーロによる都市の描写を集めただけの物語は,建築関係の人たちには表面的に理解しやすいものだったのだろう.しかし,カルヴィーノの作品が,小説全体に及ぶ多様な解釈を内包することを目論んでいることを思うと,ただの都市論として『見えない都市』が読まれることは望ましくない.
その点,『冬の夜』は,バランスのよい複雑な構成を持つ小説である.『柔かい月』は,デッサンのような短編小説集.『見えない都市』は,都市論としての表情が強すぎる.『宿命』は,あまりにも実験的すぎる.とするならば,カルヴィーノを読むには,『冬の夜』がもっともおすすめである.

| Posted by satohshinya at April 21, 2004 23:35 | TrackBack (0)

フルカラーにリミックス

『総天然色AKIRA(全6巻)』大友克洋(講談社)が完結した.これは海外で通常販売されているヴァージョンの『AKIRA』で,カラーリストのスティーブ・オリフによって,全ページがフルカラー化されているもの.だからといって,これが『AKIRA』の完全版というわけではない.縦書きの日本語がページを右から開くのに対し,横書きの欧米では左から開くため,全てのページが裏返されることになる.つまり,右利きだった金田が,国際版では左手にレーザー銃を持つことになる(鉄雄が失う腕は左手だし,アキラのナンバーは右手にある).絵の中の効果音もアルファベットに描き改められ,オマケにセリフは,大友の日本語を英語に訳したものを,更に翻訳家の黒丸尚が日本語に訳すという重訳.オリジナル版からは遠く離れたリミックス版という趣.もし『AKIRA』を読んでいない人がいたら,間違っても総天然色版を読まずに,白黒版を読んでほしい.
しかし,大友は2,158ページに及んだ『AKIRA』を描いた後,10年間で21ページ(3作品)しか描いていない.ようやく今年,『スチームボーイ』が公開されるが,どうなんだろう?

更に大友克洋に興味のある方は,こちらもご覧ください.

| Posted by satohshinya at April 20, 2004 6:59 | TrackBack (0)

観光客とともに見る美術展

「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」「クサマトリックス 草間彌生展」(森美術館)の2つを見た.森美術館は初めてであったが,美術館と展望台の入場券がセットで販売されるシステムもあって,あの回転扉の事故直後にも関わらず,日曜午後の美術館は大変な人混みだった.
そのおかげで「六本木」は,ほとんど集中して見ることができなかった.おまけに,故障している作品が多かったり,撤去されている作品もあったり,その不完全さが更に追い打ちをかける.1つ1つの作品は決して悪いものではなかったように思えたが,あまりにも双方のコンディションが悪過ぎた.バラ撒かれたような取りとめのない展示構成も手伝い,全体的に散漫な印象しか残っていない.もう少し,こちらに時間的な余裕があり,作品も完全な状態であれば,まったく違う感想を抱いていたかもしれないだけに残念だった.
一方,「草間展」の脅迫的なインスタレーション群は,ぞろぞろと列をなして歩く観光客に対しても,圧倒的な迫力で迫る.その求心力のおかげで,そんなコンディションに関係なく楽しむことができた.さながらテーマパークのようである.特に最後の『ハーイ,コンニチワ!』のポップな空間は感動的ですらあった.

「草間展」は5月9日まで.ぜひ見に行ってほしい.こちらに,「草間展」の作品を写真付きで紹介したレビューあり.行く人は見ない方がいいかも.

美術 | Posted by satohshinya at April 17, 2004 7:58 | TrackBack (1)

近代建築をめぐる12年前の話

僕がレム・コールハースに初めて会ったのは12年前である.『行動主義 レム・コールハース ドキュメント』瀧口範子(TOTO出版)にも触れられているが,日本大学理工学部で行われた「都市講座」のときであった.その3日間のレクチャーを書き起こした中から,ほんのわずかな部分を取りだして「建築文化」1993年1月号に掲載した.近代建築との距離ということで,この言葉を思い出した.12年後の彼の作品を考えると当然のように思えるが,当時の僕にとっては状況を正確に批評するショックな言葉だった.
《確かに私にとっての隠れた英雄というのは明らかに近代建築の人達であります.彼らは大変重要な基準を設けてくれたと思います.私の作品も1988年までは初期の近代建築の特徴を顕著に現していました.特に80年代のポストモダンの爆発的な影響の中では,初期の近代建築に倣ってつくることは必要であり,容易であると思っていました.しかし,私はあまりにもそれらに依存していたので少し不安になってきたのです.単なるノスタルジアから,審美的な要素だけからそれらを非常に尊重してしまったのではないだろうか? 私達の20世紀という非常に信じられないような変革が起きている時代の中で,建築だけが古いもの,70年前のものに対してオマージュのようなものをつくってゆくことが,果たして正当な方法なのだろうか? 私は自分の創造力を本当に必要なところだけに用い,それ以外は既知のボキャブラリーに頼る方がよいと思っていました.しかし,最近の私の作品には近代には例のないようなスケール,プログラムが関わっており,とても今までのボキャブラリーではつくれないものが出てきたのです.それから,私自身も驚いているのですが,私は少しオリジナルになりたいと思い始めているのです.建築を始めたときには,私はオリジナルにはなりたくない,自分は決して独創性を発揮しなくてもよいと思っていました.しかし,今までの方法に飽きてしまったからなのかもしれませんが,最近は新しい発明や発見に関心を持ち始めているのです.》

COMMENTに対して,3年前の話も付記する.レムと浅田彰,磯崎新が登場したシンポジウムに行った.詳細な話は覚えていないが,そのときに浅田彰はレムを「ポスト・コロニアリズム」と批判した.記録集『都市の変異』(NTT出版)も発売されているので,詳しくはそちらを見てほしい.浅田は同様の主旨の文章も書いている.CCTVコンペ以前の状況は,こんな感じだった.

建築 | Posted by satohshinya at April 14, 2004 1:35 | TrackBack (0)

長さと短さのバランス

清涼院流水の『彩紋家事件』(講談社)を読んだ.清涼院を読んだのは,長大な『カーニバル(文庫版)』に続き2作目.『カーニバル』,そして未読だが『コズミック』『ジョーカー』よりも遡った1970年代後半の物語である.
その時代設定のためか,執筆している現在と70年代後半とのギャップをわざわざ強調し過ぎることと,奇術が物語の中心に据えられているのだが,その描写があまりにも詳細かつ冗長であることが気になる.前者は,『カーニバル』では現在と未来のギャップによる物語の飛躍を,今回は過去と現在のギャップに置き換える試みを行っているため.後者は,『カーニバル』では奇跡的な出来事を現象のみを詳細に描写することでトリックの説明を回避していたものを,今回は奇跡的な出来事を詳細に描写するとともに,現実に存在可能なトリック(ただし,超人的な肉体訓練を要する)を用いた説明もまた詳細に描く試みを行っているため.という理由はわかるが,ともすると中盤の奇術の記述は退屈する.
以下はネタバレになるが,それでも全てを読み通し,構成上の長さと短さのバランス故の詳細な描写かと思うと,納得がいかないこともない.

| Posted by satohshinya at April 12, 2004 7:56 | TrackBack (0)

2つのベケット

サミュエル・ベケットの芝居を続けて2つ見た.1つは『あしおと』(下北沢「劇」小劇場).もう1つは『ゴドーを待ちながら』(あがたの森文化会館講堂).『あしおと』は,僕の高校からの友人である長島確の翻訳,同じく僕の友人である阿部初美さんの演出.『ゴドー』は,串田和美演出,串田,緒形拳の出演.ベケットの処女戯曲である『ゴドー』と,晩年の作である「あしおと」は,書かれた時期もあって作品が大きく異なるだけでなく,その演出もまた対照的であった.
『ゴドー』は,ウラジミール役の串田と,エストラゴン役の緒形(そして,ポッツォ役のあさひ7オユキ)のやり取りが,ベケットのテクスト(翻訳は安藤信也と高橋康也)に寄り添いながらも,時として(と言うよりも全般的に)お笑いコントの様相を呈する.もちろん,観客は大いに沸くし,網走刑務所での公演が好評であったことも納得できる.
それに対し『あしおと』は,日本語による上演に対する正確な翻訳への,確と阿部さんの徹底した意志が感じられた.ベケットのテクストを正確に上演することにより,初めて手に入れることができる本当の不条理さを,もしくは,不条理という言葉に短絡させるべきではない何かを手に入れることを目指した試みであった.
ベケットのテクストは一読すると不条理のように思えるが,実際に精読していくと,細部に渡り徹底して論理的に書き上げられていると,確は言っていた.少なくとも『あしおと』に関してはそうであるらしい.処女戯曲であった『ゴドー』が,どの程度緻密に書かれたものであるかは分からない.串田『ゴドー』は,ここで繰り広げられる不条理な会話を,普段どこででも行っている日常的な会話はこんなもんじゃない? と言わんばかりの雰囲気で演出を行う.それはそれで,主演の2人に負うところが大きいにしても,娯楽作として成立している.しかし,もし『あしおと』のように,ベケットが論理的に組み立てた(であろう)テクストとしての『ゴドー』を,日本語による正確な上演を行うとするならば,どのような『ゴドー』が立ち上がるのか,非常に興味深い.

ちなみに,串田『ゴドー』は,僕の見た松本公演がNHKで放送される予定.串田は,最近完成した「まつもと市民芸術館」の館長.設計者である伊東豊雄さんも,同じ時に芝居を見に来ていた.一方,長島・阿部ベケットは,来年の1月に新作を上演予定.

舞台 | Posted by satohshinya at April 10, 2004 7:59 | TrackBack (1)

ズレているモダンな構造

佐藤光彦さん設計の『巣鴨の家』を見た.構造はアラン・バーデンさん.何れ雑誌にも発表されるだろうが,アランさんのホームページを見てもらうと話が早い.それほど大きくない住宅だが,3世帯4人(夫婦2人,親1人,姉妹1人)が住む.その生活を成立させるための部屋の構成の是非については判断が付かないが,その構成を了承したとすると,構造の解決方法は興味深い.
2階部分のエキスパンドメタルに囲まれた外部(!)は1本の柱で支えられているだけで,外周にはブレースがなかった.当然全てS造だろうと思ったら,光彦さんに木造だと言われた.もちろん,2階部分の柱と,その上下のフレームはスチール製であり,実際にはハイブリッド構造である.どちらかと言うと,材料の特性(強度,重量),経済性などを考慮した構造形式は,合理的なモダンな構造であろう.しかし,部屋の配置による空間構成が通例とは異なるため,合理的な構造でありながらも,それほど合理的には見えない.
更に2階部分の柱は,蛍光灯による照明が取り付けられ,ポリカーボネート板に覆われているため,構造上で必要なスチールの柱に対し,意匠上はかなり太めのポリカの柱が支えているように見える.柱を細くすることで構造体を意識させない,構造技術に寄り掛かるだけのモダンな方法ではなく,構造体でありながら,それを別のものとして認識させている.
もちろん,この住宅のスチール柱の太さは非常に細く,モダンな構造を突き詰めた上で,それが少しズレていることにより,おもしろさを獲得しているのだと思う.

建築 | Posted by satohshinya at April 7, 2004 7:46 | TrackBack (0)

ポストモダンな構造

構造設計チームとして参加した建築が昨年完成した.『中国木材名古屋事業所』がそれである.意匠設計は福島加津也さんと冨永祥子さんご夫妻.実施コンペにより実現したものだが,構造設計を担当していたのが僕の大学の同期だった多田脩二で,そのため構造チームに加わることとなった.岡田章さん,大塚眞吾さん,宮里直也たちとともに,実施設計に向けて頻繁に行われたミーティングに参加することとなった.
提案の中心となったのは,木材事業所の事務空間の架構.木材による吊床版として,並べられた木材にケーブルを通し,それを両端から吊すことで屋根をつくるというものだった.施主が木材納入・加工業者であったことから,かなり過剰な数量の木材を面的な構造体として使っている.正確には半自碇式の吊り屋根構造と呼ぶらしいが,この「半自碇式」という言葉が構造設計界では話題になっているという話も聞く.詳しい構造的な話は,4月中旬に発売になる「建築技術」5月号に,多田と岡田さんによる解説文が掲載されるらしいので,そちらを読んでほしい.
構造チームに属していながら僕は構造の専門家ではないので,イメージだけの感想でしかないのだが,モダニズムの建築が持つ明快で経済的な構造形式と比較すると,この構造は非常に不思議なバランスで成立しているように思う.もし経済的な要求のみを優先した場合,今回のような構造への木材利用は必ずしも有効ではないかもしれない.しかし,これは別に否定的な意味で言っているわけではない.
構造材である木材をそのまま天井仕上げ面として見せるために,長さ3メートル,幅120ミリの集成材を136本並べ,7本のケーブルを貫通させ,更に厚さ9ミリの鉄板を貼ることで1つのユニットをつくり,それを11ユニット並べる.つまり,この曲面を描いた天井(屋根)面には1,496本の集成材が敷き詰められていることになるのだが,微細に見ると,変形の少ない集成材の使用と,正確なプレカット加工という工業的な技術によって,たった150ミリの厚さの中でケーブルと鉄板によるサンドイッチ構造が成立しており,俯瞰して見ると,それが16.5メートルのスパンに吊り下げられることで,緩やかな曲面が決定され,自己釣り合い系の構造が成立している.
部分と全体の関係が一繋がりの線的な関係を持つモダニズムの関係と比べると,この建築の部分と全体の関係には明らかな断絶,もしくは飛躍を感じる.微細な構造によって,ある性状を持つ材料(ここではサンドイッチ版)を生み出し,まずはそこで一段階が終了.次の段階では,ある材料の特性を活かした全体の構造(ここでは吊り構造)を成立させている.それらには,決定的な連続性はない.もちろん,連続性はあるが,それぞれは交換可能な関係を持っているように思う.
そこで,例えばこのような不思議なバランスで成立している構造を「ポストモダンな構造」と呼んでみたらどうだろうか,と思っている.

建築 | Posted by satohshinya at April 4, 2004 6:42 | Comments (1) | TrackBack (0)

アップデート

昨年12月の発売以来2度目となる,PSXのネットワークによるアップデートを行った.インターネットに接続可能なイーサーネットケーブルを,本体にダイレクトに差し込むことでアップデートが行える.前回のアップデートでは,2倍,10倍,120倍速の再生に30倍速が加わり,HDDに録画したもののリストが名前順に並び替え可能となった.今回は,1.3倍速の早見再生(音声付)が可能になった.もちろん,それ以外の機能も更新されている.PCを考えれば,このアップデートの感覚は当たり前のことなのだが,PSXをゲーム機,もしくは家電(PSXは家電売場で売っている)というイメージでとらえると不思議な感覚がする.もちろん,PSXはHDDが内蔵されていて,DVDを見る/焼くことができ,CDを聴くことができ,デジカメから写真を取り込むことができ,ゲームもできる.後は,テレビチューナーが付いているくらいで,ほとんどがPCの機能の一部を紹介しているようなものだ.ちなみに,PSXには別売キーボードもあって,それを接続すると見た目もデスクトップのPCと変わらない.PCの機能を特化して家電にすり替えただけだと言われると確かにそれまでだが,これを機能がアップデートする家電だと考えると,PSXはおもしろい(iPodも同様).

3度目のアップグレードが,8月3日よりダウンロード可能になる.今回は,DVDのタイトルメニュー作成(無かったのがおかしいのだが)と,HDDからDVDへの録画モードの切り替えが可能になる.何れも,とても必要としていた機能なので,とてもうれしい.しかし,どこまでが本体の性能に依存し,どこからがOSの性能に依存するのかよくわからないが,無料でこんなに進化していくのだから,本当にうれしい限りだ.(04.06.25.追記)

TV | Posted by satohshinya at April 1, 2004 6:58 | TrackBack (1)