場所をつくること

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今、話題の幼稚園をみてきた。立川駅からバスで15分ほどに位置する。園児が500人を越すマンモス幼稚園だ。敷地周囲の既存建物をよけ、中央にサークル上に囲い型の配置となっており、1階に諸室が入り、2階はすべてルーフテラス。また樹木も積極的に残され、何本か建物を貫き一体となっている。

大半は木製建具で覆われ壁の存在は感じられず、建物のファサードというものもない。内部空間はドーナッツをぶつ切りにしただけで、庇下に廊下が走りそれ以上のことは何もしていない。そのためぐるりと歩いていてもどこが何の部屋かということがわかりにくい。良い建築の判断基準は何か?一見、セールスポイントの外観もなければ、見せ場となるインテリアもないように思われるが、この幼稚園ではそれらとはすこし違う魅力が獲得されていると思う。

では、僕か感じた魅力とは何か?、それは建築が作られているというより、場所が生まれているという印象がとてもよいのだ。たまたま子供達の場所が連続して繋がっていったら、真ん中に大きな広場やサークル状のルーフテラスができているという感じだ。それぞれの場所は開放的な建具により、広場や外周沿いにある遊び場や木立などと連続し一体となり、また古い家具や園児たちのおもちゃなどが、新築にありがちな浮いたような感じはなく、日々の園児の活動を引き受けられるタフな建築となっている。ここではマニアックな空間の操作や材料などは使われていない、楕円という幾何学表現が唯一建築的な存在感として力をもち、敷地全体を纏めているのだ。なんともすがすがしい建築。

それにしても見学者の数は凄かった。バスの中で、今日は何かあるんですかと地域のおばあさんにも聞かれたほど。見学会をどこまで開くかと賛否両論はあるが、ここまで多くの人を巻き込む建築家の力もさすがですね。

architecuture | Posted by at 5 14, 2007 11:59 | TrackBack (0)

庭のデザイン

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近所の家の庭、上が去年の秋、下が今年の春。広い敷地の中に、平屋の木造住宅が中央にぽつんとたっていて周囲は庭に囲まれている。庭は特にデザインされているわけではないが、植えられている木々の種類や間隔によって綺麗なグランドが秋と春に楽しめる。

とまあ、春がはじまりましたね、

architecuture | Posted by at 4 13, 2007 14:08 | TrackBack (0)

既知感と複雑さ

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先日、三鷹である住宅を見学させてもらった。その住宅は前面道路が4mぐらいで車の交通量はほとんど感じられない密集地、ただ住宅が集まっているため敷地の輪郭には様々な窓があり、どの窓からも生活の気配が少しずつ感じられる周辺環境。そのため敷地にたつ新しい住宅はこれらの周辺の状況とどのような距離感の関係をつくりだすかによって大きくのその建ち方を決められていると思われる。最低限の駐車スペースだけを残し、それ以外は敷地境界沿いにオフセットさせたボリュームが建ち、1Fには個室と浴室などが入り、2Fはワンルームにキッチンとリビング、それらを屋上を螺旋階段が繋いでいる。敷地なりにオフセットされた矩形ではない輪郭が、内部の平面、立面の窓、窓と絡む1Fの断面などこつこつと積み上げられ、家がもっている部屋や窓といった記号は消され、ゆがんだ場がそこでは生まれている。窓とは呼びにくい壁を切り裂いたかのような窓、周囲の日のうつろいで変わる天井、壁のような不透明な換気用の窓、洗面台とは思えない家具、家具のようなトイレ、すべてが白いインテリア、どれも初めてその家を訪れたら人には突然で不親切に感じるかもしれない。だがそれら記号が消えることで、空間のプロポーションや日の入り方など空間が本来もつでき豊かさを感じることが出来るのではと感じた。丁寧な微差の集積が生み出す複雑さは記号という空間のもつ記号をなくし既知感を排除することになるが自分でもそれがどういうことに繋がるかはまだわからずこれをきっかけに考えさせられている。屋上の単純な空き地のような場がとても居心地がよかったのが印象に残っている。


architecuture | Posted by at 9 24, 2006 0:08 | TrackBack (0)

素振り

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久々に事務所でオープンコンペを担当していた。かれこれオープンのものは4年以上やっていないと思う。2週間前に急遽やることが決まりかなりの突貫作業。時間がないので思いついたものを端からモデル化していった。そこでは限られた時間の中でどれだけの可能性を潰せるかを目的とされていた。結果、かなり脱色された最終案にはなっているが、4年以上前とは違うことはその経過の中でどのアイデアがどのようしてに消去されていたか自分なりに冷静に見届けることが出来たと思う。もちろん結果はよい方が素敵だが、自分が考えて、事務所の中でもまれたことが細かく把握できているからダメな結果でも、自分の回路がいかに周りとギャップがあるかを判断できる材料にはなると思う。コンペは自分が建築について考えていることが、今の社会に対してどのような距離感であるべきか考え直すよい機会だと改めて感じた。それにしても最後はコンペでそこまで脱色するのか、という決断には考えさせられたな。最後、休日返上で自分から手伝うといってくれたスタッフや、土日返上で来てくれたオープンデスクの人にはなんとお礼をいったらよいのやら、ありがとう。
はたして素振りの成果は?、最後に打った球はどこに落ちるのやら、結果、自分の素振りのフォームを変えるようになるのか?、いろいろと考えるよいきっかけになるとうれしいな。

architecuture | Posted by at 9 5, 2006 15:54 | Comments (6) | TrackBack (0)

古さ

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今も使い続けている築80年?ぐらいの建物に入ることがあった。
時間がたまたま生み出したその場の雰囲気はとても魅力的。

architecuture | Posted by at 8 4, 2006 18:20 | TrackBack (0)

ビンゴ

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おしい、アビバに阻まれビンゴになれないビル。
それにしてもよくあわせているな、経営が同じなのか?
それともテナント相互の連携で生まれたのか?

architecuture | Posted by at 8 2, 2006 11:45 | TrackBack (0)

大学1年生の夏休み

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篠原一男さんが亡くなった。
実は大学1年生の夏休みに建築のスケッチの宿題があって、
その時に選んだものは東工大100周年記念館だった。
たまたま建築mapをぺらぺらめくって比較的近所だったという理由で選び、
スケッチを描いている時なんとも言えない存在感をもつ印象だけは残っている。
だがそれ以降、篠原一男の存在は自分にとっては遠いままだった。
住宅論なども読み少し知識を得てからもなかなか近寄りがたいものだったが、
ここ数年になりようやく彼の建築がみたいと密かに盛り上がってはいたところだった。
写真は以前、足繁く通った現場のそばに建つ「上原通りの住宅」。
shinyaさんのページをみてわかったのだが1976年に竣工ということは自分と同じ歳の建築。
写真は先月撮影したもの、今でもその存在感は他者に追随を許さないと感じた。
ご冥福をお祈りします。

architecuture | Posted by at 7 18, 2006 22:31 | TrackBack (0)

最適化

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uheさんの勤める事務所の見学会に行って来た。場所は、京葉線新習志野から徒歩15分ぐらいの住宅街、大きな公園に面する。まわりはハリボテ感たっぷりのハウスメーカーの木造住宅が建ち並ぶ中、シンプルで品のある佇まい。構造は木造+部分鉄骨、大きな開口で木造ならではの既知感から生まれるある種の貧乏くささみたいなものは感じられない。施主からの要望は高級感がある家で、それをかなえるべく設計者は床面積や高さといった規模、仕上げや設備機器といった仕様をぶれなくコントロールしていることが伺えた。何をやめたら、何を得られるかがきちんとプレゼンされ、それがきちんとコミュニケーションされていることは大事ですね。

architecuture | Posted by at 5 9, 2006 21:26 | Comments (6) | TrackBack (0)

ラフな表面

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久々にオープンハウスに行って来た。タカ○プランニングオフィスのプロデュースでI○Uが設計した王子の集合住宅。敷地は角地で両側2車線の道路2面と路地気味な幅員4mほどの道路1面と合計3面に接道している。規模は大体40〜50m2ぐらの住戸が25戸ぐらい入っている5層。プランは以前カーサブルータスで紹介された十字プランを基本としていくつかのバリエーションで展開されている。接道面が多いことから当然周囲の建物から引きがあり比較的裏がないことから色々な方位が光を取り入れやすい。凸凹の十字プランと光が入りやすい敷地条件が重なり内部は集合住宅がのありがちな奥があって暗い感じの場所は少なくどの部屋も明るい印象。十字プランによるくぼみは1Fでは住戸の専用庭として利用され、大きな土間が玄関となっていたりして集合住宅ではなかなか体験しにくい半屋外のような場所もある。外壁は打放し型枠ではなくラワン合板によるRC打放しのため木目やベニヤの色が若干RC面に残っており、内壁はPBに珪藻土のようなざらつきのある塗装が施されており、内外がラフな感じでまとまりを持っている。ちょっとわからなかったのが部分的な外壁の白塗装、ひっこみ部分の外壁を白く塗り少しでも暗い印象を解消したいのかな。個人的にはラワン合板の打放しやRC内断熱のインテリアをみてみたかったのでよい経験でした。

architecuture | Posted by at 2 13, 2006 16:08 | TrackBack (0)

製品か作品か

「美術か建築かとではなく、商品・製品か作品かが問題になってきているのではないか・・・」

今年のSDレビューの記事の中でのコメント。
なかなか気になることば。そこで辞書で言葉を検索してみた。

●せいひん 【製品】 原料に手を加えて作った品物。
●しょうひん【商品】 市場で取引されるもの。財貨・サービスなど。
●さくひん【作品】 製作した品。特に、文芸・音楽・美術工芸などの芸術的製作物。
三省堂提供「大辞林 第二版」より

どうも違いがわかるようでわからない・・・イメージは出来るが言葉にはできない・・・

 何故、こんなことを気にしているのかというと建築は作品なのか?それで必ずしも作品である必要があるのか?という出口の見えない問題を常に抱えているからだ。建築家による美術的仕事に関わることでその問題が解消できるかもしれないと思ってここまで来たのだが以前として問題は深まるばかり。
 僕がそもそも建築を作品として疑いだした時点のことを考えることにした。建築は他人のお金で作られる、そしてそれがその人にとってプラスな存在である必要がある。それが大前提でそれをつくりだした結果、建築家にとってささやかでもプラス要素があればよいのだろう。住宅だったら住まい手と建築家の両者が作品をつくろうという意識がないとそれは両者にとってハッピーな作品にはならない。でも現実はなかなか難しい。例えば住宅だとメンテナンスフリーの製品を購入するという感覚が多く建築作品に文化的認知が少ないと感じる部分が多い。そのためなかなか作品をつくりだすコミュニケーションが生まれにくい。そのような状況でも作品とよばれる住宅は出来るのはなぜか?と考えてみた。
 一人の建築家がつくり出した住宅には大半の場合、例えば黒っぽい家、窓の大きな家、など見つけやすいある共通項がある。その共通項はテイストみたいなもので、それをたよりにクライアントは建築家を選び作品づくりへのコミュニケーションがはじまり仕組みが生まれる。逆にそのテイストがなければクライアントは何が出てくるかわからない不安を感じコミュニケーションの困難を予想するのだろう。本当は建築について文化的理解や興味が高ければテイストではないもっと別なきっかけでもよいと思う。これから建築家は欠陥マンション,住宅でも持ち切りの社会の中で、建築作品をつくりだすきっかけとなるテイストとは違ったアイコンを持つことができるのだろうか。

architecuture | Posted by at 12 21, 2005 23:30 | Comments (3) | TrackBack (0)

「新しさ」のインパクト

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事務所が入っている建物の廊下、最近とある美術家が壁のひびを骨董品の修復と同じ手法で施したようで、金色の筋が入っている。普通の補修だったらパテ処理して同色のペンキを塗って終わりなのだがここではささやかではあるが「新しい」ことが行われていると感じた。
8月号の新建築で藤本さんが「新しい座標系」というテキストがあり、そこでは「ではその新しさは何のなのか。僕はそれは座標系、ということだと思う。座標系とは、単なる形のことではなく、何か新しい価値観、物を思考する枠組みのようなものであろう」と書かれている。その新しさにたどり着くために「二人」「居場所」「弱さ」というものをキーワードに話を展開しており日本的なるものに新しい座標系を近づくためのポイントがあるとも思うとここでは話している。直感的には「新しさ」に対してとても共感できる内容、しかしわからないことが一つあって「新しさ」に近づくための手がかりが今までの価値観をうち破る強烈なインパクトをもつものではなく逆に「弱さ」をもとにしたあいまいでゆるいものに可能性を感じている点であった。
テキストを読んだあと、上の写真の壁を眺めていたら確かにテキストで述べられているようにこれからの「新しさ」は決してインパクトのある強いものではなく、これまた直感なのだがもう少し別なものではないかと僕も感じてきたのだ。その気持ちを例える上で「弱さの空間秩序」という言葉も理解できてきている感じがする。以前、いろいろなアクティビティを引き受けられるゆるい空間について少し考えたことがあるがそれに近いとも思う。
shinyaさんのレポートを読んで、振り返って考えてみると初めてみた村野藤吾の建築を直感で一言でいうと「体験したことはなかったが新しい感じがしない」という点である。それはもしかしたら近代以前の価値観に近いものの上で組み立てられているのかもしれない。藤本さんの建築を実際にみたことはないが雑誌でみる限り弱さのある空間秩序よりハードエッジな外観の印象と佇まい、少しゆがんだ平面形ということばかりが目にとまってしまう。そう思うとこれからの「新しさ」はインパクトが感じにくいほうが正常なのかな。「弱い」ってインパクトはどんなものだろうか?

architecuture | Posted by at 8 19, 2005 18:02 | TrackBack (0)